●岩手 もう海見たくない ~ 文春光さん(盛岡市) | 津波に襲われたときの自宅周辺の様子について説明する文さん | 震災発生当時、海に面した釜石市の自宅2階にいた文春光さんは、揺れが治まらないうちに家を飛び出した。1960年のチリ地震、68年の十勝沖地震、78年の宮城県沖地震と過去に3回も津波を経験し、その恐ろしさを知っていたからだ。高台から見下ろしたとき、自宅のあった場所は波に飲まれていた。 地元の小学校に2週間ほど避難し、その後内陸部の温泉施設に移った。3月末には盛岡市内にアパートを借り、今は仕事を探す毎日だという。62歳という年齢がネックになるのか、現在は赤十字や国からの支援金と生活保護で暮らしている。 沿岸部以外に大きな被害はなかったという岩手県では、内陸部の盛岡市や遠野市が復興景気に沸いているという。津波被害の大きかった沿岸部での建設作業などが多いというが、文さんは「もう海は見たくない」という。 「釜石に行けばカネが落ちている」といわれた昭和30年代の賑わいを知る文さんは、人口がピーク時の半数を割った釜石に復興できる力があるかどうか懐疑的だ。2年前に釜石に戻ってくるまでは関東を中心に仕事をしていたので、施設に入居している母の状況次第では岩手を出ることも考えている。 家も思い出の写真もすべて流されてしまい、好きだった海も見たくなくなってしまった今、釜石に戻る気力も理由も残っていない。 ●福島 見通しないつらさ ~ Aさん(郡山市) 原発から20キロメートル以内の警戒区域内に住んでいたAさんは、匿名を条件に住民の苦悩を語ってくれた。それは、避難所に住む人々と、それ以外の人々の間に生じた溝のことだ。 震災後、ペットと一緒に逃げたAさんは、避難所に入ることができなかった。食料を分けてもらおうにも「避難所生活者以外には分けられない」と断られた。避難所に入れなかったり出たりした人は、家探しから職探し、日々の生活を自分で工面しなければならないが、「あなたたちはお金でプライバシーを買ったんだから」といわれ、愕然とした。 Aさんや友人は、避難所に入っているのは高齢者や障害者など動くに動けない人が大半であることは理解している。しかし、自立できるはずの資産を持っている人が入所していたり、義援金で日常的に飲酒する人がいることが納得できないという。チャリティーバザーを企画したボランティア団体が「あそこは大丈夫だね」と、なかば呆れた様子で避難所を見ていたのも知っている。 自営業だったAさんは、「まったく先が見えない」と気を落とす。若い人や小さな子どもがいる夫婦は、すでに地元を離れて生活を始めている。茨城県やいわき市に会社ごと移転し、仕事を再開した人もいる。「お金が必要なこともありますが、何でもいいから働きたい。何かしていないと気が滅入る」というが、それもできずにいる。 6月上旬に取材したときに願っていた父の墓参りはできていない。一時帰宅は母親が経営する法人名義で果たせたが、店のドアはこじ開けられ、店内は荒らされていた。震災と原発事故という二重の被害から立ち直る道筋すら見えないのが何よりもつらい。 |