ログイン 新規登録
最終更新日: 2024-07-23 12:58:08
Untitled Document
ホーム > アーカイブ > 小説
2010年03月18日 09:28
文字サイズ 記事をメールする 印刷 ニューススクラップ
 
 
序曲(66) 金鶴泳

 自制心から祥一は保谷にはまだいちども行っていなかったが、直江津旅行から帰って数日後、池袋で洋子に逢ったとき、彼ははじめて、
「これから、君のアパートに行っていいかい」
 といった。
 その日も土曜日の午後だった。仕事を終えた洋子と中華料理屋で昼食を共にし、そのあと喫茶店でコーヒーを飲んでいたとき、突然彼はそういい出したのだった。
 灰黒い雲が空を覆い、冷たい風が吹いていた。中華料理屋で食事を終え、駅の近くの喫茶店の方に歩いていたとき、灰黒い雲を見上げ、冷たい風を頬に受けているうちに、重く曇っていた直江津の空、暗く荒れ狂っていた海、水平線上にたなびいていた黄色い光の帯が、彼の中によみがえった。
 それは、暗鬱な光景だった。その光景の記憶が、彼の中に暗鬱な思いを喚(よ)び起こした。辛いとも、やりきれないともつかない感情が彼の胸にひろがった。荒々しい直江津の海のように、そういう感情に反抗したい荒々しいものが心に湧いた。思いきり洋子を抱き締めたい気持に襲われた。洋子の肉の中に暗鬱な思いを埋めたかった。
 アパートに行きたいとはどういう意味か、洋子にすぐにわかったらしかった。羞(は)じらいの色を顔に浮かべ、目を伏せて、
「金さんさえよければ」
 と小さくいった。


 湯島の祥一の下宿は、そういう意味では具合いが悪かった。家主夫婦の目が煩(わずら)わしかったし、ごく普通の民家の二階だけに、独身の会社員が住んでいる隣室との境は襖(ふすま)なのである。襖に平行して突っかい棒をあて、それを鍵代わりにしているような六畳間だった。
 金さんさえよければ、という洋子の素直な承諾が、一方では彼に多少の意外感を与えた。微かな安堵感とともに、自分に対する洋子の気持は、もうそこまで行っているのかと思った。
 七里ヶ浜で接吻に及んだときも、洋子はそういうことは拒むのではないか、と彼はちらっと思ったものだった。しかし、洋子は少しも逆らわなかった。むしろ、それを待っていたような素振りさえ感じられた。彼が舌を入れたとき、洋子も舌を動かして応えたのは、その証拠に思えた。
「保谷にはいちども行ったことがないし、君のアパートも見てみたい」
 祥一は、ある予想からくる洋子の羞じらいを取り除こうとするように、つとめて明るい声でいった。
「何の変哲もない田舎町よ。それに、部屋も狭苦しいわよ」
 洋子は、表情と声の調子を元に戻した。
「池袋から保谷まで、電車で何分かかる?」
 祥一も普通の口調できいた。
「二十五分ぐらいね」
「乗り換えもないし、通勤には便利だね」
「会社でまとめて借りているアパートなの」
「武蔵野の感じがまだずいぶん残っているだろうね」
「けやきの木がたくさんあるわ。雑木林もね。それに、駅の南側はちょっと商店街になっているけれど、北側は畑がずっとひろがっていて、お百姓さんの家がぽつりぽつりしか建っていないの。畑も、キャベツとウドが多いわね。芝生畑もたくさんあるわ」
 洋子の声には、もはや屈託した調子はまったくなかった。
 二人は喫茶店を出、西武線に乗って保谷に向かった。

1984年9月20日4面

1984-09-20 4面
뉴스스크랩하기
小説セクション一覧へ
ソウルを東京に擬える 第31回 居酒...
韓商新会長に柳和明氏
金永會の万葉集イヤギ 第17回
金永會の万葉集イヤギ 第18回
金永會の万葉集イヤギ 第19回
ブログ記事
マイナンバーそのものの廃止を
精神論〔1758年〕 第三部 第28章 北方諸民族の征服について
精神論〔1758年〕 第三部 第27章 上に確立された諸原理と諸事実との関係について
フッサール「デカルト的省察」(1931)
リベラルかネオリベか
自由統一
金正恩氏の権威強化進む
北韓が新たな韓日分断策
趙成允氏へ「木蓮章」伝授式
コラム 北韓の「スパイ天国」という惨状
北朝鮮人権映画ファーラム 福島市で開催


Copyright ⓒ OneKorea Daily News All rights reserved ONEKOREANEWS.net
会社沿革 会員規約 お問合せ お知らせ

当社は特定宗教団体とは一切関係ありません