自制心から祥一は保谷にはまだいちども行っていなかったが、直江津旅行から帰って数日後、池袋で洋子に逢ったとき、彼ははじめて、
「これから、君のアパートに行っていいかい」
といった。
その日も土曜日の午後だった。仕事を終えた洋子と中華料理屋で昼食を共にし、そのあと喫茶店でコーヒーを飲んでいたとき、突然彼はそういい出したのだった。
灰黒い雲が空を覆い、冷たい風が吹いていた。中華料理屋で食事を終え、駅の近くの喫茶店の方に歩いていたとき、灰黒い雲を見上げ、冷たい風を頬に受けているうちに、重く曇っていた直江津の空、暗く荒れ狂っていた海、水平線上にたなびいていた黄色い光の帯が、彼の中によみがえった。
それは、暗鬱な光景だった。その光景の記憶が、彼の中に暗鬱な思いを喚(よ)び起こした。辛いとも、やりきれないともつかない感情が彼の胸にひろがった。荒々しい直江津の海のように、そういう感情に反抗したい荒々しいものが心に湧いた。思いきり洋子を抱き締めたい気持に襲われた。洋子の肉の中に暗鬱な思いを埋めたかった。
アパートに行きたいとはどういう意味か、洋子にすぐにわかったらしかった。羞(は)じらいの色を顔に浮かべ、目を伏せて、
「金さんさえよければ」
と小さくいった。
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湯島の祥一の下宿は、そういう意味では具合いが悪かった。家主夫婦の目が煩(わずら)わしかったし、ごく普通の民家の二階だけに、独身の会社員が住んでいる隣室との境は襖(ふすま)なのである。襖に平行して突っかい棒をあて、それを鍵代わりにしているような六畳間だった。
金さんさえよければ、という洋子の素直な承諾が、一方では彼に多少の意外感を与えた。微かな安堵感とともに、自分に対する洋子の気持は、もうそこまで行っているのかと思った。
七里ヶ浜で接吻に及んだときも、洋子はそういうことは拒むのではないか、と彼はちらっと思ったものだった。しかし、洋子は少しも逆らわなかった。むしろ、それを待っていたような素振りさえ感じられた。彼が舌を入れたとき、洋子も舌を動かして応えたのは、その証拠に思えた。
「保谷にはいちども行ったことがないし、君のアパートも見てみたい」
祥一は、ある予想からくる洋子の羞じらいを取り除こうとするように、つとめて明るい声でいった。
「何の変哲もない田舎町よ。それに、部屋も狭苦しいわよ」
洋子は、表情と声の調子を元に戻した。
「池袋から保谷まで、電車で何分かかる?」
祥一も普通の口調できいた。
「二十五分ぐらいね」
「乗り換えもないし、通勤には便利だね」
「会社でまとめて借りているアパートなの」
「武蔵野の感じがまだずいぶん残っているだろうね」
「けやきの木がたくさんあるわ。雑木林もね。それに、駅の南側はちょっと商店街になっているけれど、北側は畑がずっとひろがっていて、お百姓さんの家がぽつりぽつりしか建っていないの。畑も、キャベツとウドが多いわね。芝生畑もたくさんあるわ」
洋子の声には、もはや屈託した調子はまったくなかった。
二人は喫茶店を出、西武線に乗って保谷に向かった。
1984年9月20日4面 |