ログイン 新規登録
最終更新日: 2024-11-19 12:39:03
Untitled Document
ホーム > アーカイブ > 小説
2010年03月18日 09:28
文字サイズ 記事をメールする 印刷 ニューススクラップ
 
 
序曲(66) 金鶴泳

 自制心から祥一は保谷にはまだいちども行っていなかったが、直江津旅行から帰って数日後、池袋で洋子に逢ったとき、彼ははじめて、
「これから、君のアパートに行っていいかい」
 といった。
 その日も土曜日の午後だった。仕事を終えた洋子と中華料理屋で昼食を共にし、そのあと喫茶店でコーヒーを飲んでいたとき、突然彼はそういい出したのだった。
 灰黒い雲が空を覆い、冷たい風が吹いていた。中華料理屋で食事を終え、駅の近くの喫茶店の方に歩いていたとき、灰黒い雲を見上げ、冷たい風を頬に受けているうちに、重く曇っていた直江津の空、暗く荒れ狂っていた海、水平線上にたなびいていた黄色い光の帯が、彼の中によみがえった。
 それは、暗鬱な光景だった。その光景の記憶が、彼の中に暗鬱な思いを喚(よ)び起こした。辛いとも、やりきれないともつかない感情が彼の胸にひろがった。荒々しい直江津の海のように、そういう感情に反抗したい荒々しいものが心に湧いた。思いきり洋子を抱き締めたい気持に襲われた。洋子の肉の中に暗鬱な思いを埋めたかった。
 アパートに行きたいとはどういう意味か、洋子にすぐにわかったらしかった。羞(は)じらいの色を顔に浮かべ、目を伏せて、
「金さんさえよければ」
 と小さくいった。


 湯島の祥一の下宿は、そういう意味では具合いが悪かった。家主夫婦の目が煩(わずら)わしかったし、ごく普通の民家の二階だけに、独身の会社員が住んでいる隣室との境は襖(ふすま)なのである。襖に平行して突っかい棒をあて、それを鍵代わりにしているような六畳間だった。
 金さんさえよければ、という洋子の素直な承諾が、一方では彼に多少の意外感を与えた。微かな安堵感とともに、自分に対する洋子の気持は、もうそこまで行っているのかと思った。
 七里ヶ浜で接吻に及んだときも、洋子はそういうことは拒むのではないか、と彼はちらっと思ったものだった。しかし、洋子は少しも逆らわなかった。むしろ、それを待っていたような素振りさえ感じられた。彼が舌を入れたとき、洋子も舌を動かして応えたのは、その証拠に思えた。
「保谷にはいちども行ったことがないし、君のアパートも見てみたい」
 祥一は、ある予想からくる洋子の羞じらいを取り除こうとするように、つとめて明るい声でいった。
「何の変哲もない田舎町よ。それに、部屋も狭苦しいわよ」
 洋子は、表情と声の調子を元に戻した。
「池袋から保谷まで、電車で何分かかる?」
 祥一も普通の口調できいた。
「二十五分ぐらいね」
「乗り換えもないし、通勤には便利だね」
「会社でまとめて借りているアパートなの」
「武蔵野の感じがまだずいぶん残っているだろうね」
「けやきの木がたくさんあるわ。雑木林もね。それに、駅の南側はちょっと商店街になっているけれど、北側は畑がずっとひろがっていて、お百姓さんの家がぽつりぽつりしか建っていないの。畑も、キャベツとウドが多いわね。芝生畑もたくさんあるわ」
 洋子の声には、もはや屈託した調子はまったくなかった。
 二人は喫茶店を出、西武線に乗って保谷に向かった。

1984年9月20日4面

1984-09-20 4面
뉴스스크랩하기
小説セクション一覧へ
金永會の万葉集イヤギ 第30回
写真で振り返る2024年「四天王寺ワ...
李在明・共に民主党に1審有罪
北韓軍派兵に韓国は様子見モード
トランプ氏再選で変わる世界
ブログ記事
マイナンバーそのものの廃止を
精神論〔1758年〕 第三部 第28章 北方諸民族の征服について
精神論〔1758年〕 第三部 第27章 上に確立された諸原理と諸事実との関係について
フッサール「デカルト的省察」(1931)
リベラルかネオリベか
自由統一
北朝鮮人権映画祭実行委が上映とトーク
金正恩氏の権威強化進む
北韓が新たな韓日分断策
趙成允氏へ「木蓮章」伝授式
コラム 北韓の「スパイ天国」という惨状


Copyright ⓒ OneKorea Daily News All rights reserved ONEKOREANEWS.net
会社沿革 会員規約 お問合せ お知らせ

当社は特定宗教団体とは一切関係ありません