古代の倭国に人類史上最も美しい花園があった。その花園はいつしか忘れられ、今の日本人は花園が存在した事実すら知らない。その花園が作られた契機は、草壁皇子の死だった。
今回の連載から歌の原文は省略することにした。日本の万葉研究者たちが解読したものと比較して読んでもらいたいと思う。全く違う解読だ。この連載の新しい解読が正しい。気の毒だが、これまで通説だった解釈は忘れてほしい。いま、巨大な課題が現代の日本人の前に現れた。
万葉集35番歌
草壁皇子のお墓を訪ねる人々の足跡がずっと続くようにするのが道理に合うよ。
当然、倭国の人々が国中で皇子を強く偲ぶようにせねばならないよ。
あの世への道に雲がかかっているね。
皇子の生前の功績を記録した文を、二人が背負って勢能山に行くね。
689年、草壁皇子が死去した。彼は鸕野讚良皇后と天武天皇の間の一人息子、皇位を継承するはずだった。鸕野讚良皇后の傷心は計り知れないほど深かった。風雨がしぶくあの世への道を進まねばならない息子のため、数多くの万葉郷歌を作らせた。
それまでは少人数によって散発的に作られてきた万葉郷歌が、草壁皇子の葬儀を契機に多くの人々によって創作された。まるで、爆発するようだった。
草壁皇子の冥土への旅のために作られた歌は、二人が背負うほど(二負)だったと表現されている。
万葉郷歌の爆発現象の背景には、母である鸕野讚良皇后の積極的な後援があった。皇后の万葉郷歌に対する感受性は、祖母の斉明天皇と父の天智天皇から影響を受けたに違いない。
草壁皇子の死を契機に、郷歌が天皇家で広く歌われるようになったのだ。真の万葉時代の幕開けだ。
この35番歌は、草壁皇子の妻の阿閇皇女が旅立つ夫のため作った涙歌だ。彼女が28歳のときだ。
阿閇皇女は草壁皇子の叔母だった。阿閇皇女は天智天皇の娘で鸕野讚良皇后の異母妹だった。阿閇皇女は、天武天皇8年(679年)、自分より1歳年下の甥と結婚、彼の正妃となった。
原文に出る「勢能山」とは「あの世へ行く道でのしぶきを耐えられるようにしてくれる山」という意味がある。
草壁皇子の死と万葉郷歌の爆発 持統万葉の始まり(万葉集35~38番歌)
<続く> |