◆高城入姫(応神の妃、仲姫の姉)
景行を父とし、八坂入姫を母とする高城入姫は12番目の子で、2番目の子である五百城入彦とは兄妹になる。妹の仲姫も兄弟の関係になるはずだが、日本書紀・応神紀は、仲姫を景行の子の五百城入彦の孫にしている。系譜の錯乱が見られるから、系譜も造作された可能性がある。
とまれ、金官伽耶には高城鉄城が築かれていたといい、古事記・神武記に「宇陀多加紀」と記されている。その多加紀は「高城」だ。古代の城郭は、高地に設けて四周に塁壁をめぐらした。その城郭から転じて都市の意味に用いられるようになった。
高城入姫は、小伽耶の姫とも解される。日本書紀には、仲姫より先に高城入姫を妃にしていたとの記述がある。これは、伽耶から倭地に亡命した応神が、伽耶ですでに高城入姫を妃としていたことを匂わせる。
◆大山守(応神の子)=土形君・榛原君の祖
額田大中彦の弟である大山守は、父(応神)が自分を太子に指名してくれるものと期待していたが、太子になったのは菟道稚郎子だった。大山守は山川林野を司る役目に任命された。
その後、額田大中彦を介して、屯田司である淤宇宿禰の屯田管理権を奪取しようとしたが、その目論見ははずれた。あれやこれやで怨みをもった大山守は、太子を暗殺し帝位を奪うという陰謀を企てることになったようだ。
その陰謀を聞いた大鷦鷯は、太子の補佐役であったから、もちろん太子に知らせた。大山守が太子を急襲すべく、莵道河(宇治川)を渡ろうとして、粗末な麻の服を着た渡守の船に乗ったのだが、船は河の中ほどにきて転覆し大山守は落命した。
大山守が葬られた奈良山は、日本書紀・崇神紀に、彦国葺と埴安彦が戦った場所として記されている。奈良山は、古くは那羅山と表記され、古書に「佐保山中に古墳あり、峰に倚り築成し、円塚なり、土俗大山守皇子墓と為す」とある。奈良盆地の北辺に位置し、奈良山丘陵の南辺に沿って東西に佐紀盾列古墳群が連なる。古事記も大山守が奈良山に葬られたと記す。
日本書紀は大山守が土形君と榛原君の祖になったと記すが、古事記では、もう一つ増えて幣岐君の祖にもなったと記す。
◆土形君
和名抄に城飼郡土形郷が載せられ、後に土方村と改称、中世には「遠江とおとうみ国笠原庄内、土方下郷」と記された。姓氏辞書は「土方公」を「遠江(応神裔)土形君の族裔であろう」と記している。
◆榛原君
姓氏辞書に、榛原君は「遠江榛原郡榛原郷より起こる」とあり、和名抄に波伊波良と注しているが、古訓は波里波良だという。和名抄はまた、丹波国多紀郡榛原郷を載せ、後に八上村日置村と称されるようになったという。丹波志によれば、八上を土俗羽柴実といい、羽柴実はハンノキのことで、その木があるから、榛原の字をあてたと述べる。
榛原は古書に多く蓁原と書しているが、蓁は萩と同じで、榛はハンノキ(赤楊)のことだから、蓁と榛は同名の異草木だという。元亨釈書には遠江国針原と載せ、正保国図以後、公用榛原に定められたという。 |