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2021年08月31日 17:29
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新解釈・日本書紀 応神<第13回>

(18)渡来人が入植し韓人池などを造営

応神6年の春、誉田別尊(古事記では品陀和氣命=応神)は近江国に行幸し、菟進野のほとりで「葛野を見渡すと、豊かな家どころも見える。国の秀れたところも見える」という歌を詠んだ。
「思ったより豊かな土地だなあ」という感慨を歌ったものだろうという見方がある。亡命してきた応神、つまり沸流百済は傷心の日々であったと思われ、栄華を極めていた往時の沸流百済の都を思い出し、その場所と比較して「倭地も住もうと思えば、住める土地だ」と安堵している歌意だというものだ。
応神が宇遅野(菟進野)から望んだ葛野の地は、愛宕、乙訓、紀伊を含む広域の地であったろう。葛野は『和名抄』に加止乃と訓まれているが、もとは加豆怒あるいは加豆良と呼ばれ、桂川の名はこれによるとされている。太秦を本拠とし、葛野臣、葛野別、葛野連、葛野県主などの諸氏が繁衍した。
応神7年条には、「高麗人・百済人・任那人・新羅人が共に来朝した。武内宿禰に命じて韓人をして池を造らせたので、この池の名を韓人池と名付けた」との記事があり、韓人池がある唐古は韓人が居住していたことから命名された地名だという。
『地名辞書〈大和国〉』に、韓人池は「からこのいけ」と訓み、「今川東村大字唐古に在り」と伝えている。『夫木集』の衣笠大臣の歌などから、韓人池は畏敬の気持ちをもって、身近に韓人池を眺め接していたように感じるが、いつの頃よりか、「韓人」が「唐古」と表記されるようになった。
応神7年の記述からは、韓地からの渡来人が続々と日本列島に渡海し開拓したことが窺える。池造りによる農業ばかりでなく、鍛冶も機織も酒造もすべて渡来人の手による。新井白石が「天降りの天は海のこと」と言っているように、玄海灘を渡ってきた天孫族、つまり韓地からの渡来人が日本列島を開拓したことが記紀には満載されている。
ともあれ、応神朝に作られた軽池は酒折池とみられている。厩坂道は軽の地にあったといい、白橿村大字田中の辺りを指すようだ。厩坂を冠する語として、応神紀には蝦夷に作らせた厩坂道、厩坂池、阿直岐(百済の使者)が馬飼いをした厩坂などがある。

(19)沸流百済の都は熊津=仇乙


慰礼城は、全北益山説、忠北稷山説、京畿道廣州説があり、ソウル市江東区の夢村土城、あるいはソウル市松披区の風納土城という主張もある。慰礼城は、百済建国(BC18)から22代文周王元年(475)まで、約500年にわたり百済の首都だった。そして475年に熊津(公州)に遷都し、63年間首都とした。しかし再び高句麗に圧迫され、聖王16年(538)に首都を泗批(扶余)に遷し、百済が滅亡(660)するまでの122年間、その扶余が首都であった。
日本書紀で漢と表記されるのは慰礼城に、百済で表記されているのは扶余にそれぞれ比定される。百済の名称は、後に全百済を代表する国名になった。そして記紀に見る「呉」は、応神期当時の百済の首都である熊津に比定される。熊津の別称が仇乙である。中国崇拝の思想によって呉と表記されたという。

2021-08-31 6面
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