鈴木惠子
(七支刀)に刻まれている銘文の解釈には諸説あって、今でも確定されていませんが、その銘文の全文を次に示してみます。
【泰■四年■月十六日丙午正陽造 百錬■七支刀■辟百兵 宣供供侯王■■■■作】【先世■来未有此刀 百済■世■奇生聖音(または晋)故為侯王旨造■■■世】
現在のところ、銘文中の「泰■四年」を、東晋の年号「太和四年」と解釈し、369年に百済で造られ倭王に奉った、という説が主流になっています。しかし、「泰■四年」を、晋の武帝の「泰始四年」と解釈すると、268年に当たります。銘文の「侯」という字は「美しい」「諸侯」などという意味ですが、「美しい」だとして、「音」または「晋」の部分は「晋」を選択し、「旨」を「王の言葉」と解釈して、次のように訳してみました。
【晋の武帝の泰始四年(268年)五月十六日、夏の太陽が正に真上にある時に造る。この百錬の七支刀は、百の兵を避けることができ、美しい王に供えるにふさわしい】【このような刀は未だない。百済の世継ぎとして、奇しくもこの聖なる晋の世に現れた。それゆえ、美しい王の言葉(申し出)により、この刀を造った】
この解釈によると、七支刀は、晋の武帝が倭王・壹与に賜ったものと推察されますが、実際、壹与は2年前の泰始二年(266年)に武帝に朝貢していることから、それに対する返礼であった可能性があります。そして壹与は美しく、また百済の世継ぎでもあったようです。
当時の百済王は古尓王(在位234~286)とされ、夫余王・依慮の在位は(242~285)とされていますが、二人の関連については、残念ながら現在まで確認できていません。
古尓王が即位した234年当時は、百済国は馬韓50余国の中の一国であり、公孫氏と共に夫余王・麻余が治めていたと推察されます(『先人1人目・卑弥呼』参照)。その後、238年の公孫氏の滅亡により麻余も排除されて、百済国が次第に強大になっていったと考えられます。
夫余王・依慮は237年頃の生まれと考察しましたが、公孫氏滅亡直前に麻余と古尓との間に生まれた可能性が出てきました。そして、268年当時、晋の武帝は、依慮=壹与が百済の世継ぎの子であると認識していたことが確認できそうです。
『晋書・四夷伝・夫余国』には、依慮について次のような記述もあります。「武帝(在位265~290)の太康六年(285年)、鮮卑族の慕容廆によって夫余が襲撃され、王の依慮は自殺、子弟は逃げたが、沃沮で保護された」
このことに関連していると思われる記事が、神道五部書の一つ『豊受皇太神宮御鎮座本紀』(国史大系第七巻)に見出せます。それによると「崇神天皇の時、天照大神が大和の笠縫邑から与謝宮に移り、四年に渡り豊受大神から食事などを奉られていた。四年後に、天照大神は伊勢へ移り、後の雄略天皇二十二年(477年)に豊受大神も伊勢に移った」とあります。 |