22番歌の解読において注目すべきは作品の配置順である。20・21番歌は大海人皇子と額田王の密愛の歌だ。そのとき、額田王の身分は天智天皇の女人だった。たとえ大海人皇子と額田王が過去に恋人関係だったとしても、2人の密愛は命懸けの危険なことだった。
その密愛の4年後、壬申の乱が起きた。そして大海人が勝った。大海人と額田王は20・21番歌の力が壬申の乱の勝利の決定的な要因だったと信じた。
荒唐な話と思われるかも知れないが、郷歌時代の人々は万葉の神様がそうしてくださったと心から信じていた。
だから、20・21番歌を万葉集に収録しておいたはずで、勝利後すぐ続いて今回紹介する22番歌を配置したのだ。20・21・22番歌はその性格上、一つのセットの歌だった。
壬申の乱と額田王・十市皇女の母娘に関連した主な経過を見てみよう。
667年、近江への遷都が行われた。
668年、大海人と額田王の浦生野での密愛があった。この時、万葉集の20・21番歌が作られる。「茜色の兵士たちに神の加護あれ」は郷歌だった。
672年、壬申の乱が勃発。大海人の兵士たちは実際に20・21番歌に沿って赤い布を味方の印とした。大海人が勝利し、大友皇子は自決する。
673年、天武天皇が即位、十市は皇女となった。
675年、十市皇女が伊勢神宮に参拝する。この時、22番歌が作られる。
壬申の乱を前後にして額田王・十市皇女母娘にあったことが順に収録されている。それが20・21・22番歌の3作品だ。壬申の乱を正面から扱っている歌・作品だ。天武天皇が壬申の乱で勝利したのは、間違いなく額田王と十市皇女のお陰という事実を記録した歌だ。
では、十市皇女・額田王母娘は壬申の乱と関連し何をしたのか。日本書紀、万葉集、扶桑略記を見れば、モザイクの欠片を合わせるように、それが鮮明に浮かぶ。
悲劇の人生 十市皇女(22番歌)
<つづく> |