洪熒・本紙論説主幹
韓米相互防衛条約の公式調印は1953年10月1日、卞栄泰外相とダレス国務長官がワシントンで署名した。署名直後、李承晩は「全国民に告ぐ」という声明で、「わが子孫たちが、これから累代にわたってこの条約によって、多くの恵沢を享受するだろう。韓米両国の共同の努力は、外部の侵略者たちから、われわれの安保を長らく保障する」と述べた。
条約は、韓国国会が1954年1月15日に、米上院が1月26日の批准案を可決した。だが、韓国軍の増強問題をめぐる韓米の意見対立で批准書の交換が延期されて11月17日、発効した。
韓米相互防衛条約は、第2条で韓米どちらかが外部の武力攻撃によって脅威を受ける場合、相互協議して、単独か共同かで攻撃を阻止するための「適切な措置」を規定している。第3条は「適切な措置」の具体的な方法として、「各自の憲法上の手続に基づいて行動すること」を宣言している。
この二つの条項だけを見れば、韓半島で共産軍が再び侵略してくるとき、米軍の自動介入保障はない。憲法上の手続を経て、米大統領が議会に承認を要請したとき、議会が拒否すれば、米国は参戦できない。それで、第4条で、韓国での戦争に米国が直ちに介入する装置を用意した。「相互の合意によって米国の陸軍、海軍と空軍を大韓民国の領土内とその付近に配置する権利を大韓民国は許諾し、米国は受諾する」という条項だ。
休戦後、米国はこの条項によって南韓に米軍の駐留ができ、在韓米軍の第2師団をソウル北方の西部戦線に展開した。これは北側がソウルを目指して攻撃する場合は、米軍を攻撃するしかないようにするためだった。海外に駐留する米軍が攻撃される場合、米大統領は、議会の承認なしに直ちに自動的に参戦できる。
李承晩大統領は、相互防衛条約で、米軍の韓国内駐屯を義務付けて、米国が1882年に締結しながら条約(朝米修好通商条約第1条)の義務を履行しなかった前轍を踏まないようにした。
韓米同盟を結ぶことで、大韓民国は韓国から手を引こうとした米国を留めさせ、米国が東アジアの集団安保体制の反共の前哨基地となった。その見返りとして韓国が支払ったのは、休戦協定を妨害しないという覚書一枚だけだった。ただ、米国がやることを妨げないという一言で、超大国からの破格的な支援を引き出したのだ。
これこそ李承晩の神技に近い外交術の本質だった。李承晩大統領は、韓国が外交的に与えられるものはなく、もらわねばならないものは多いという現実を常に頭の中に置いていた。そして、彼は将来を見据え、相手の思惑を洞察して、常にもっと有利な位置を確保しようと努力した。
彼は、米国を韓国に縛り付けておくため、度々米国の困難な状況へ追い込んだ。韓米相互防衛条約を取るため休戦協定に反対し、反共捕虜を一方的に釈放したのが代表的事例だ。
李承晩は焦土化された国土の戦後復旧費と経済援助、国軍20個師団増強、相互防衛条約を乞うのではなく、米国に配慮した形で確保した。あるとき、軍事援助会談で韓国側がジェット機の供与を要請するや米国側が「パイロットもいないではないかと」と断った。
報告を受けた李承晩は、直ちに「元々は米国もジェット機のパイロットなどいなかったはず。明日、韓国のパイロット100人を送るから訓練させて欲しいと言え」と指示した。結局、米国はジェット機を与えるしかなかった。(つづく)