李承晩はトルーマンに送った書簡(7月20日付)で、次のように述べている。
「閣下もご存じのとおり、韓国人の誰も参加していない38度線に関する1945年の軍事協定の結果、韓国国民は自らの意思に反して分断されました。この分断は北韓でソ連の指令と統制で、韓国の伝統と感情とは全く異質的な共産政権を許しました。(中略)戦争以前の状態に復帰させ、再集結と再訓練と再武装する時間的余裕を許して再び攻撃して来るように敵の放縦を待つのは非常に愚かなことです。決然とした覚悟で帝国主義侵略の癌的存在をなくし、世界の共産主義によって韓半島の奥深くに不自然に成長した悪性腫瘍を抉り出す時期が到来したのです。大韓民国政府と国民は今こそ統一の時期であると考えており、韓国人と同盟国の、途方もない犠牲を払ってのいかなる結果も統一以外のことは考えられません。大統領閣下も同じ結論に達したと本人は確信していますが、わが政府の立場を閣下に明確に申し上げます。韓国政府の同意と承認なしに韓国に対して他国が決定するいかなる協定や了解事項も、拘束力のないものと見做します」
李承晩は、この戦争に勝利して分断された韓半島の統一機会にするつもりだった。しかしトルーマンは、戦争以前の状態に戻す制限戦の概念を固守した。
李承晩は7月26日、マッカーサーに切実に訴える書簡を送り、そのコピーをロバート・オリバーにも送った。「ウォーカー将軍に砲兵装備と重砲を韓国軍に与えるよう訓令し、北進する韓国陸軍に航空支援を続けるようパートリッジ将軍(第5空軍司令官)に命令してください。南の深くまで進出した敵には増員兵力がありません。われわれは敵の主要部を後方から遮断できます。われわれは絶対に成功を確信しています。今、この作戦をしないと、韓国国民の生命だけでなく、米国人の命も大きな脅威にさらされます。どうか韓国人を信頼し、彼らの願いを叶えてあげてください」
李承晩は共産軍が補給物資を準備していないことを看破した。国軍は後退していたが、国民は敵に占領された地域でも大韓民国への忠誠を捨てなかった。6・25戦争の勃発直前に断行された李承晩の農地改革が生きていた。政府は7月26日「徴発に関する特別措置令」を公布した。
大田駅で避難列車に乗るため避難民や政府要人など多くの群衆が集まっていたとき、敵の迫撃砲弾が近くに落ちた。この緊迫した状況でも、李承晩は「洛東江がわれわれの最後の防衛線であり生命線だ」と叫んだ。洛東江防衛線が危うかった7月29日、李承晩はフランチェスカ夫人に東京へ撤退するよう命じた。フランチェスカが最後まで大統領と一緒にいると誓うと、李承晩は「二度と亡命政府を作らない。われわれの将兵たちと一緒に、ここで最後を迎えよう」と言い、決戦の瞬間に力と勇気を下さるよう神に祈った。
米24師団長のウィリアム・ディーン少将が大田で失踪した(後に人民軍の捕虜になった)が、大田で米軍が共産軍の南進を3日間止めたおかげで、米機甲部隊が釜山に上陸できた。ディーンの後任として派遣されたウォルトン・ウォーカー司令官は将兵たちに「われわれには、これ以上後退できず、退ける所もない。何があっても、後退はない。私はここで死んでも韓国を護る。君たちも自分のバンカーの中で死ぬまで戦え」という悲壮な死守命令を下した。
(つづく) |