元心昌の統一3原則「民族自決・平和・国際協調」
統協(南北統一促進協議会)事務室は東京・日本橋通り2丁目にある大同ビルディング2階にあった。同志たちはここで互いの額を突き合わせながら統一の方案について苦悩したが、統協は結成から1年で事実上、機能麻痺の状態に陥った。後日元心昌氏は統協運動を総括し、失敗の原因を次のように分析した。
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本紙1959年6月11日付、1面に掲載された元心昌氏の論文 |
「統協運動は大衆の欲求と合致し、それにより歴史上まれに見るほどの在日同胞の広範囲な呼応を受けた。しかし長く継続することができなかった。主体性が確立されていて、これを守って行く核心部隊があれば、民団と朝鮮総連による反対と冷視があっても、力なく崩れ落ちなかっただろう。同志の離脱も、時流に敏感な支持大衆の離脱も防げただろう。(中略)主体性とは、私たちの祖国統一を私たちの手で成就するという自覚だ。統一を私たち自ら推進するという覚悟は、祖国と民族のために仕事をするという信念が前提にならなければならない。統一運動の主体性はこの基本精神とともに思想的原則をたてなければならない。その思想的原則とは第一に、民族自決の原則。第二に、平和の原則。第三に、国家同権の精神を基礎にした国際協調の原則である」(本紙1959年6月11日付、新たな段階に入った統一運動の進路)
元心昌氏は統協失敗の原因を、自らの力で統一を達成するという自覚が不足していたと反省した。これは現在の韓国と在日韓国人社会に、そのまま適用することができる分析だ。韓民族自らが統一を果たそうとしていない限り、民族の未来はないとみたのだ。元氏はこの論文で、統一した際に、主体性が重要な理由についても説明している。
「主体性が確立されていないまま得られた統一は、私たちが(解放直後)身自ら経験した結果が、どれくらい悲惨であったかを知ることができるからだ。統一事業は8・15解放の前轍を踏まないためにも、民族的主体性の確立は優先だ」
元心昌氏は8・15を、韓民族が自ら勝ち取った解放ではなく、他国間の戦争による所産とみていた。日本が韓半島を去ったのは、太平洋戦争での敗北という外部的要因による結果であり、そのような国際構図によって戦勝国が南北韓の分断を思いのままに決定したという認識であった。
元心昌氏はまた、海外統一運動の不可避性を、「国内では南北両地域ともに、制限された統一運動しかできないのが実情であるため、海外での統一運動に期待するしかない」と説明した。この日発表した元氏の論文は200字詰め原稿用紙9枚分で、決して長い分量ではないが、統協運動に対する総括と統一の原則や方向性など、氏の統一哲学が含蓄されている。
特に元心昌氏の統一3原則である、「民族自決、平和、国家同権の精神を基礎とした国際協調」は、それから13年後の1972年、韓国の朴正熙政府と北韓の金日成政権が合意した「7・4南北共同声明」の原則と大同小異である。南北韓は、「自主、平和、民族的大団結」の原則の下で統一を推進することに合意した。
では、統協が解体される過程はどのようであったのか? メンバーはばらばらに散った。ある者は民団を、ある者は朝鮮総連を訪ねて行った。あるいは民族組織を離れて無所属として残った者もいた。当時元心昌氏とともに民団から除名処分されていた権逸氏の場合は、翌年の1956年1月31日に、「民主社会同盟」という組織を結成した。本人が委員長を務め、顧問に元氏と上海六三亭義挙を共にした李康勲氏を推戴した。民主社会同盟の活動は微々たるもので、権逸氏は程なくして民団に復帰した。
統協は厳密には機能停止状態であった。統協メンバーが組織の解体を決めたことがないためだ。元心昌氏をはじめ何人かのメンバーは統協を死守した。1971年7月4日、元氏が他界すると、氏を慕う統一運動家の後輩は本紙1971年7月21日付を通じて、「先生は『一人でも信じる道を行く』という強烈な自主自立の精神と情熱を傾けて行動する、厳格な戦闘精神を持っていた人」とし、「その核心は、我が民族に対する深い愛情、そして民族解放がなされてこそ自分の人生が成立するという固い信念にある」と回顧した。(つづく) |