1948年5月31日、中央庁会議室で開院した制憲国会の第1回本会議は、当選者198人全員が出席して国会議長に李承晩、副議長に申翼熙と金東元を選出し、議長団を構成した。制憲国会は7月1日、国号を大韓民国と決め、同12日に内閣責任制の要素が加えられた大統領制憲法を議決。17日に国会議長が署名して公布した。
大韓民国憲法は、平等権、自由権、財産権、教育権などの基本権を保障し、三権分立による権力間の牽制と均衡、司法権の独立、地方自治など、近代自由民主主義の要素を整えた大統領中心制政府と一院制の国会を採択した。前文には、大韓民国が3・1運動と大韓民国臨時政府の独立精神を継承したことを明記。新しい国が大韓帝国と大韓民国臨時政府の歴史的・理念的法統を受け継いだ国であることを確認した。
韓半島には20世紀の初めまで両班と常民の身分秩序が厳然とあり、両班でない一般の民と庶子、女性、奴隷はひどい差別を受けた。「同じ民族」という共同体意識は希薄だった。
大韓民国の建国と民主主義国民国家の誕生は革命だった。以前には存在しなかった近代的な政治体制や制度的基盤ができたためだけではなく、韓国人自らが社会的能力を培って自分の運命を主導的に決定し、主権的主体として政治的決定を下す近代的な国民として生まれ変わったからだ。
憲法は李承晩が大統領中心制にするよう強く要求したことで、内閣制要素が加わった大統領制に変わった。李承晩は上海の臨時政府時代、大統領に国務会議主宰権を与えず、臨政の行政権が国務会議主宰者である国務総理に集中したことに大きな不満を持っていた。この経験から、大統領が国務会議主宰権を含む強力な権限を持つべきだと考えた可能性が高い。
国会は7月20日、李承晩議長を大統領に、李始榮議員を副統領に選出する。24日に中央庁広場で初代大統領の就任式が挙行され、8月15日、大韓民国建国が宣布された。この日を期して米軍政の行政権は正式に大韓民国政府に移譲された。大韓民国の誕生が統一国家ではなく、分断国家、不完全な近代国民国家だったため、統一された国民国家完成が至上課題として提起された。
李承晩大統領は15日の政府樹立宣布演説で、大韓民国の基礎となる制度や価値などを宣言。真っ先に、民主主義を挙げた。彼は大韓民国の制度は民主主義であることを次のように述べた。
「民主主義を全的に信じねばなりません。わが国民の中には、あるいは独裁制度でなければ困難な時期を乗り越えられる道がないと考え、あるいは共産分子の破壊的行動では重大な問題を解決できる知恵と能力がないという観察から、独裁権でなければ方法がないと思う人もいますが、それらはわれわれが皆残念に思うものです。(中略) 独裁が自由と振興をもたらさないことは歴史を通じて証明されたことです。民主制度は難しく、また時間がかかるものだが、義なるものが最終的には悪に勝つ道理を信じなければなりません。民主制度は世界の友邦が信じるもので、われわれ友邦たちは専制政治と戦い、また戦っているところです。世界の耳目がわれわれを見ており、歴史の鏡がわれわれを映している今、われわれが民主主義を採用することを30年前から決定し、実行してきたことを、間断なく実践しなければなりません。この制度で成立した政府だけが人民の自由を保障する政府です」
(つづく) |