米ソ共同委の決裂後、ソ連側が朴憲永に「新戦術」を通じて南韓で暴力闘争を展開するよう指令したのは、南韓を統治している米国への挑戦だった。この指令の背景には、1946年5月、中国大陸の国共内戦で八路軍が四平街と長春で蒋介石軍に惨敗した、共産側の情勢悪化があった。
「新戦術に対する指示書」が発表されるや、米軍政は共産党の違法行為への取り締まりを強化した。左翼はこれに対抗して労働組合全国評議会(全評)を動員する鉄道労組ストを計画した。9月24日、米軍政の減員と給料制変更を契機に鉄道局京城工場の労働者がストを起こした。9月25日から10月の初めにかけて多くの工場や職場が連鎖ストに突入。学園に浸透した左翼系学生たちも同盟休学を主導し、農民暴動が起きた。
9月のゼネストと10月の暴動においてソ連の資金支援と背後操縦が明らかになっている。シュチコフの備忘録によると、朴憲永が9月9日、「党が社会団体をどう指導すべきか」と指針を仰ぐと、シュチコフは9月11日と16日の2回にわたってロマネンコを通じて、「テロと圧制に反対する大衆的な示威と抗議を組織せよ」と指示。ゼネスト中の9月28日に資金を支援した。ゼネストと暴動が続いた約3カ月間、ソ連軍政は南朝鮮闘争基金として300万円と122万ルーブルを朝鮮共産党に送った。
左翼は1946年10月1日、大邱で暴動を起こして警察署の武器を奪取し、留置場にいた左翼事犯たちを釈放した。暴動は慶尚北道と慶尚南道地域に拡大した。暴徒は「人共旗」を掲げて警察を攻撃対象とし、右翼とその家族を殺害し家に火をつけた。警察と民間人83人が殺された。
当時、南韓の庶民生活は失業、食糧難、物価上昇などで極めて困難だった。これが共産党の暴力闘争に有利に働いた。韓半島は共産党による同族間殺戮が繰り広げられ、”地獄”になる。韓半島は分断によって、植民地35年間とは比較できないほど多くの人命が犠牲になるが、その始まりは共産党によるものだった。
米軍政は10月2日、大邱地域に戒厳令を宣布し鎮圧に入った。暴徒は農村地域や山岳地帯に逃走してゲリラ活動を行った。1947年に入っても、国立大学学案反対闘争、3・1節闘争、3・23ゼネストなど混乱は続いた。
米軍政は、この渦中にも左右合作7原則に呼応して「南朝鮮過渡立法議院」創設を宣布した。全体の半分である45人の民選議員を間接選挙で選出し、残りの45人は米軍政長官が任命する官選だった。10月下旬、南朝鮮過渡立法議員選挙が行われた。民選議員のうち韓国民主党12人、李承晩中心の大韓独立促成国民会議の会員17人、金九の韓国独立党4人、右翼性向の無所属当選者12人で、右翼の完勝だった。極左路線に転じた左翼は選挙自体を拒否した。米軍政が陰で後援した左右合作委員会は、多くの候補者を出したが、1人も当選できなかった。
慌てた米軍政は、ソウルと江原道での選挙を無効化し、再選挙を実施。また、官選過渡立法議員を任命する過程で、ホッジ将軍は左右合作委員会が推薦した中道・容共人士を充てた。過渡立法議院議長には金奎植が任命された。
この措置に激怒した李承晩は11月25日、ホッジに「私が直接米国を訪問し、米軍政の失策を世の中に暴露し、韓国問題を国連に提出する」と宣言した。李承晩は12月4日、マッカーサーが用意した飛行機でソウルを発ち、7日にワシントンに着いた。(続く) |