3・1独立万歳運動を契機に民族意識に目覚めた元心昌氏は、故郷を発って母親に「日本をよく知ってこそ、独立することができる」と決心を明らかにしたという。1920年ソウルの私立中東学校(現中東高等学校)に進学したのに次いで、1923年日本留学に発って、その年の春日本大学社会科に入学した。
この時彼はアナーキズム(無政府主義)思想に陥った。彼の死後、統一日報が報じた略歴によれば、「入学と同時に無政府主義運動を通じて抗日独立闘争に身を投げた」と言う表現とともに、朴烈(初代民団中央団長)などが結成したアナーキズム思想組織である「黒友会」に加わったという内容が登場する。
彼が大学に入学したその年9月1日関東大震災が発生した。日本当局は、14万人に達する死亡者と行方不明者、被災者340万人という大災害が起きると急いで戒厳令を宣布した。
ところが乱れて慌しい民衆の中に突然、「朝鮮人たちが放火、暴動、井戸に毒を入れた」という朝鮮人蛮行説が流布した。この流言飛語によって植民地朝鮮から玄海灘を渡った最低3000人から6000人の韓人が竹やりなどで虐殺される惨劇が起きた。この時「アナーキストの暴動」を名分に朴烈氏を逮捕する事件も起こった。日本の天皇を爆殺しようとした、いわゆる「大逆事件」、朴烈氏が拘束されて死刑宣告を受けて、「黒友会」とその下部の秘密結社組織「不逞社」は解散の危機に逢着する。
しかし日本の圧制によって忽ち消えるようであったアナーキズムの火種はかえってさらに燃えあがるようになる。韓人アナーキストたちは、より組織的で強烈な闘争路線に変わって行った。この時同志を糾合して無政府主義運動の力を結集した主導者の中心が元心昌氏だった。
元氏は1924年8月無政府主義系最初の労働組合「東興労働組合」に参加、無政府主義系抗日闘争の中心人物に浮かび上がり始めた。東興労働組合は、日本で働く朝鮮人労働者の権利を主唱する抗日労働団体であった。「黒友会」は労働運動と連帯して会員数がさらに増えて3000人に達する大組織に発展した。組織は東京中心の関東地域のみならず関西、愛知にまで拡散した。
「東京だけで、東興労働組合と朝鮮自由労働者組合、桂林荘、新聞配達人組合、自由青年連盟など9組織3200人のアナーキストが活動した」(キム・ミョンソップ アナーキスト研究家、2010年5月韓国日報寄稿文)
元氏は組織の名前を何度も変えながら抗日闘争を精力的に展開した。1926年5月「黒色運動社」、同年11月「黒色戦線連盟」、同時期に直接行動を志向する「不逞社」の復興と機関紙「黒友」第2号発行、1927年2月「黒風会」、1928年1月「黒友連盟」などの結社と組織を主導した。アナーキストたちは、同志同士が日本当局による弾圧情報を取り交わし、合法と非合法の境界を出入りして直接的な実力行動で当局に抗した。
この頃、元氏は数多くの
同志たちと日本で出会う。「黒友会」を通じて張祥重、鄭泰成、洪鎭佑、陸洪均、李弘根、崔圭〓、李星泰、韓〓相、金鉄、朴律來、栗原一夫、吉川時夫などに出会い、「東興労働組合」を通じては、解放後、新民党議員と民主統一党総裁として韓国野党の大物政治家になる梁一東、民団中央団長になった丁賛鎭、徐相漢、梁相基、陳哲、李何中などと縁を結んだ。
日本植民地時代のアナーキズム抗日運動は日本が中心舞台になった。元氏のように玄海灘を渡って来た留学生たちが主導勢力になって、労働者たちがその構成員になった。韓半島でも大邱の「眞友聯盟」などが無政府主義運動を展開したが勢力化することに失敗した。アナーキズムは、個人の自由を最上の価値に立てて、これを抑圧する力を否定する思想だ。日本の植民地に置かれた韓国人としては善の人間性、共同体的な生活の具現を追い求めて権力体制を崩そうというアナーキズムの主張は魅力的で認識されやすい要件を取り揃えていた。 (つづく) |