4日、仁川で開催されたアジア競技大会の閉幕式に平壌から黄炳瑞が崔龍海と金養建などを連れて出席した。北側のこの仕掛けにより、韓国社会では「南北関係の改善」に期待する声が上がっている。 この一件で、特に北との連邦制「統一運動」を主張してきた従北・左派が活気づいた。これこそが北側の狙いだ。 では、実際に北側の連邦制攻勢に呼応する勢力を養成してきた「知識工作員」としての全教組の正体を、統進党の国会議員候補である康宗憲の活動軌跡を通じて見てみよう。 康宗憲は盧武鉉政権だった2005年8月14日から17日まで、ソウルで開催された「民族大祝典」の統一行事に、日本からの代表団に選ばれて参加した。当時のことを彼の自叙伝から引用する。 ◆ 一五日の本大会が終わった後の交流会で、懐かしい友人に再会しました。一九八二年の夏、大田刑務所で一緒だった人たちとの出会いでした。当時は学生だった彼らも、今は各地域の市民団体で中心的な役割を果たしています。あれから二〇年以上も経っていましたが、今も統一運動を続けているのです。自分の住む地域で黙々と活動する姿に触れて、大きな力と勇気をもらいました。獄中で一緒だった同僚のなかには、国会議員や閣僚になった人もいます。でも、そうした著名人よりも、一市民として、それぞれの地域と職場で生き生きと活動する彼らを心から誇りに思いました。大田市の高校の社会科教員をしている後輩がいいました。 「兄さん。韓国社会がここまで来るのは大変だったよ、人々が北への不信や敵意をのりこえるには、本当に長い時間が必要だったから…。教育の現場でその実践に関われたのは幸せだったと思う」 静かな微笑みと少しも変わらない謙虚な姿勢に、こちらが恥ずかしくなりました。韓国社会の民主的な発展は、そして統一意識の変化は、彼ら名もない民衆の献身がもたらしたものだと改めて学びました。(自叙伝170~171ページ) ◆ この康宗憲の後輩こそが全教組メンバーである。彼らは、野蛮な暴圧体制であり、封建的な全体主義下で住民を虐殺している金氏王朝への不信と敵意を、教育現場からなくすため頑張ったと告白しているのだ。 では、康宗憲自身は「汎民連」の職を辞した後、どのように統一活動を続けたのか。彼の自叙伝によれば、康宗憲は07年3月23日、大阪大学から国際公共政策学博士の学位を授与されて教壇に立つ。彼は非常勤講師として、国際社会と平和、国際福祉論、現代の人権などの授業を担当したという。康宗憲の授業の様子を彼の自叙伝の中から引用する。 ◆ 「私は成績の評価をレポートで行います。○×式や選択式の試験問題を実施したことはありません。(中略)田母神俊雄氏の『日本は侵略国家であったのか』を題材にして、一回生の学生たちにレポートを書いてもらったときです。高校で日本史を選択しなかった学生たちは、アジア諸国との関係が問われる現代史を学んでいません。そうした学生たちは田母神氏の主張を全面的に肯定する傾向を見せます。(中略)授業中にいくつかの映像資料を観賞してレポートを作成してもらいます。人種差別や日本社会での民族差別、日本軍の「慰安婦」制度、イラク戦争などがテーマの映像です。(中略)元日本軍『慰安婦』の年老いた女性たちを取材した映像が、大変な衝撃だったようです。(中略)レポートの課題は『私にとっての人権』でした。学生たちが少しでも人権に関して考える機会となったのなら、私の授業もむだではなかったと思います」(自叙伝177~181ページ) ◆ 康宗憲はこういう内容の授業を日本の大学で行う。全教組の教員たちは、それを韓国の中高校で行っているのだ。 康宗憲や全教組メンバーが人権の重要性を教えるのを咎めるわけではない。ただ、康宗憲が田母神氏らを非難するなら、彼らはどうして共産独裁体制の人権抹殺には触れないのか。康宗憲と全教組はなぜ、金日成王朝の強制収容所や虐殺、封建時代への回帰に対しては学生たちに全然教えないのか。慰安婦の人権を語りながら、なぜ現在進行形の脱北女性たちが人身売買されて「性奴隷」になっている悲劇に対しては沈黙しているのか。 つまり、康宗憲や全教組がやっていることは人権教育ではなく、平壌のための宣伝を超え、一種の政治的洗脳活動というしかない。(続く) |