李栄薫(ソウル大学教授、教科書フォラム共同代表)
大部分の人々は、我々の歴史を「少数の反民族的親日派が支配勢力として君臨した汚辱の歴史」という前近代的な歴史認識をもっている。それで世論は「親日人名辞典編纂委」の「親日派名簿」発表に同調的だ。だが、「親日問題」でわが社会がこれ以上葛藤し、騒々しくては困る。韓国が先進社会へ進むためには前近代的な歴史認識から抜け出て新しい歴史意識が必須だ。その新しい歴史意識は、我々が生きている現代文明の根はどこにあるのかという存在論的質問から始まらなくてはならない。
去る4月29日、「親日人名辞典編纂委員」会が4,700人余りの「親日派名簿」を発表した。以後主要放送を中心に、これを巡る賛否討論会が活発に繰り広げられた。各種のインターネット媒体を通じて確認される世論の動向は、同「委員会」の活動に同調的であるようだ。
しかし、歴史的事実に対する理解と評価を、多数に従う方式の世論調査にばかり任せるわけにはいかない。世論そのものが古い歴史意識か、誤った歴史教育の産物であり得るからだ。
歴史とは過去と現実の対話である
英国の歴史学者のカー(E. H. Carr)は、歴史を「過去と現実の対話」といった。この「対話」が、固定的でなく、絶えず他の方式や内容に変わって行かざるを得ないのは、次の二つの理由のためだ。
まず、時間の流れにより、過去に対する情報がますます多く蓄積されるという点だ。今日私たちは特定の時代に関してその時代の人々は想像もできなかった大量の情報を利用することができる。これには大量の情報を処理できるコンピュータの発達が大きな役割をしている。
二番目に、過去に対する現実の需要がしきりに変わるという点だ。私たちが過去の歴史に関心を持つ根本理由は、今日私たちが置かれている現実と類似の条件で過去の人々がどのように行動したのかが知りたいからだ。ところで、現実それ自体が絶え間なく変わり発展するので、我々が過去の歴史から得たい教訓の内容も変わるほかはないのだ。
「親日人名辞典編纂委」の歴史に対する評価方式には問題がある
筆者が見るには、「親日人名辞典編纂委員会」の活動は、21世紀を生きている今日の韓国人が、去る20世紀と「対話」をする正しい方式でない。同「委員会」が20世紀と対話する方式には、次の三つの前提が敷かれている。
第一、大韓帝国が1905年または1910年亡びたのは、少数の「反民族親日派」が国を売り飛ばしたためだ。第二、日帝が韓国を強制的に支配したその時期に、「親日」と「反日」、または「協力」と「抵抗」の境界線は明確だった。第三、解放後も「反民族親日派」が相変らず大韓民国の支配勢力として君臨したため、歴史の正義が消え、政治や社会の不条理が深まった。
解放以後しばらくの間、韓国人たちは、このような前提で「日帝」が韓国を支配した過去の「歴史」と対話をした。彼らはその前提で「親日派」を一日でもはやく清算することが、新しい国家の建設に求められる必須課題だと考えた。
だが、歳月が60年も経った今日にまで、上の三つの前提が妥当なわけではない。上で指摘したように、過去の歴史に対する情報が一層豊富になったことが一つの原因ならば、過去の歴史から得ようとする教訓の内容が変わったからだ。
朝鮮王朝没落の根本的原因は?
朝鮮王朝、あるいは大韓帝国は、少数の反民族勢力が蠢動したため滅びたのではない。最近の研究によると、朝鮮王朝の経済は18世紀の中・後半を頂点にして、19世紀末まで長期的に沈滞した。19世紀の後半には深刻な経済危機がもたらされた。それにより社会的混乱が段々ひどくなった。
このような挑戦に対し、朝鮮王朝の政治は新しい突破口を見付けられなかった。自然と人間世界を理解する知性も、狭い朝鮮の性理学の枠組みに閉じ込められていたからだ。このような相互因果の悪循環が繰り返される中、朝鮮王朝は開港(1876)以後の内外の挑戦に耐えられず倒れた。
前後の事情がこうだったことを、20世紀の前半の韓国人たちは十分わからなかった。それで王朝が倒れる現場で活動した何人かの政治家に、王朝の滅亡の責任を問ったのだ。
ところが、王朝の敗亡の構造的原因をより科学的に認識するようになった21世紀の今日ですら、そのような考えに固執しては困る。一つの国が滅びたことを、少数の政治家が国を売り飛ばしたという式で、その原因を求めるのは厳密に言えば、前近代的な歴史認識だ。
「民族」という言葉は20世紀になって日本から輸入された
日本の植民地期に、「親日」と「反日」、または「協力」と「抵抗」の境界線が明確だったという考えには、当時の韓国人すべてが今日のような強烈な民族意識を共有したという前提が敷かれている。ところが、最近の研究が明確にしているように、韓国人が強烈な「民族意識」を共有するのは、逆説的に「日帝」の抑圧と差別を通じてであった。
19世紀末までは今日の「民族」に該当する言葉がなかった。「民族」という言葉は、20世紀に日本から輸入されたものだ。伝統韓国語の中に「同胞」や「同族」のような言葉があったが、それらの意味は、今日の「民族」と相異なった。そのような意識状態の中で、多くの韓国人は、過去の宗主国である中国の代りに日本が来るや世の中が変わったと看做した。
「協力」と「抵抗」の境界線が不透明だった一つの理由は、国内外で展開された独立運動が、今日私たちが戦線と呼べるほど強力に、また持続的に展開されなかったという点だ。そうであったので、多くの人々は変わった世の中に適応して生きるほかなかった。
彼らの一部は、日本を通じて入ってきた新しい文明を学習し実践することにより、新しい文明人になろうと努力した。そうすることが、自分の社会的地位を高めるだけでなく、将来わが民族が「日帝」の抑圧から抜け出て、独立する道だと考えた。言い換えれば、その時代は、今日の強烈な民族意識を持った韓国人が想像もし難いほど、霧に覆われた明け方の道のような混沌だった。
先進社会への進入のために歴史意識の一大転換が必要だ
1948年に建てられた大韓民国が、反民族親日派を清算できなかったとか、反民族親日派が支配勢力として君臨した国だった、という認識も、実際には共産党をはじめ大韓民国の建国に抵抗した政治勢力が誇大包装した宣伝スローガンに過ぎないものだった。
警察や憲兵になり、独立運動を露骨に弾圧したか、総督府の官吏として日帝の支配政策に忌憚なく協力した悪質的な「附日輩」らは、解放後たいてい地方単位で自生的に展開された、わが民族の攻撃を受け除去されたか、追放された。名が知られた「親日派」が大韓民国の高官に登用されたことは全くなかった。植民地期に成長した「地主勢力」は、ほとんど農地改革で解体されてしまった。
総督府が構築した「植民地国家」(colonial state)の行政、治安、徴税、司法機能が大韓民国に継承されたことは事実だ。その過程で、約12万に達した総督府の各級官署の下級官僚、警察、軍人、教師、技術職などが大韓民国の公務員になった。それをもって親日勢力が国を建てたと言えるのか。「親日人名辞典編纂委員会」の考えは恐らくそうであるかも知れない。
しかし、筆者の考えはそうではない。前述した通り、植民地期は世の中が変わる一大混沌期で、「協力と抵抗」の境界線はきわめて不透明だった。そうした中で「植民地国家」を媒介として西洋を起源とする近代文明が伝播してきた。その文明を先駆的に学習し実践した勢力があった。新しい文明の学習のためには日帝との協力が避けられなかった。だが、その道は将来わが民族が近代国家として独立する道だった。いわゆる「躊躇する協力者」らの考えはそれだった。
21世紀の始めの今日を生きる韓国人は、先進社会への進入という大きな歴史的課題を迎えている。そこには、韓国人を一つのよく統合された文明共同体に結束する先進的な歴史意識が必須的だ。この新しい歴史意識は、我々が生きている現代文明の根はどこにあるのかという存在論的質問から始まらなくてはならない。
そのような真摯な問いの前で、私たちは、20世紀のわが民族の苦難期に、その抑圧と差別の時期に、近代文明を学習し実践することに渾身の力を傾けた、わが先祖たちのもう一つの姿を発見する。これこそ20世紀の我々の歴史の主流なのだ。このような歴史を、少数の反民族親日派が支配勢力として君臨した汚辱の歴史だと罵倒していいのか。親日問題でこれ以上社会が葛藤し騒々しくては困る。それはすでに、それこそ枝葉末節の問題だ。歴史意識の一大転換が必要な時点だ。
李栄薫(ソウル大学校経済学科教授、教科書フォラム共同代表)
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