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最終更新日: 2026-01-27 11:29:04
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2026年01月27日 11:29
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幻の大和朝廷107
新解釈日本書紀(続)応神

 舒明3年(631年)に来倭した百済王子の余豊璋を人質とみるのが通説だが、実際は、百済、新羅、高句麗の三国が戦乱状態にあり、百済は倭地に王族を避難させて王系を保持したもので、余豊璋の来倭もその一環と見られている。
余豊璋は30年間ほど倭地に滞在して帰国し、百済の大王に就任したが、弟たちも一緒に来倭したと考えられ、また婚姻などにより多くの王子をもうけたと思われる。そうした弟や妻子につながるのが皇極、あるいは中大兄王子ではないかとの推測も湧き出てくるのだ。

〔皇極紀〕

皇極朝は蘇我蝦夷・入鹿の朝廷であった

舒明こと息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)の後を継いだ皇極こと天豊財重日足姫(あまとよたからいかしひたらしひめ)は、舒明と同じタラシ名号を含む同系の大王であることを明らかにした。すなわち、皇極も沸流百済系倭地勢力によって擁立された大王であったということだ。
皇極朝は、天変地異が多発し、蘇我蝦夷・入鹿父子を揶揄する童謡も流行り、非常に不安な世相であったことを浮き彫りにした。そのことは、皇極の在位そのものに疑問が呈せられるということになり、実際は空位であったのではないかと指摘されている。あるいは、舒明の正妃であった宝姫(皇極)は、舒明が死去した後、大后として称制したにすぎず、大王には即位していないとも考証されている。
そのような大王不在の朝廷にあって、大王の振る舞いをしたのが蘇我蝦夷・入鹿の父子で、皇極朝の実質的な大王は蘇我蝦夷・入鹿父子であったという結論になる。蘇我入鹿は、乙巳の変で殺害され、蘇我蝦夷も自決せざるをえなくなるなど、大王位を窺ったとされる蘇我蝦夷・入鹿父子は悪逆の輩として記憶されるようになった。
しかし実際は、混乱した世相にあって、蘇我蝦夷・入鹿父子は大王の振る舞いをする絶対権力者であったと考えられるのだが、その時代に、百済王子の余豊璋が滞在していた。その滞在は30年に及ぶということで、であれば、兄弟の渡来もあっただろうし、子供も多くもうけたであろうと思われる。

蘇我入鹿を殺した韓人は余豊璋親縁の人物の可能性

韓地百済(温祚百済)の代理人ともいうべき立場で、倭国の仏教化革命を成功させた蘇我氏は、当時、韓地三国の動向は大きく揺れ動き、故国である百済は滅亡の瀬戸際に立つ危険な状況の置かれていたことを肌で察したと思われる。

2026-01-28 2面
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