青年言論人、国民の目と耳を開く
「国がどのような妙策で文明開化へと進むのかを互いに問うても誰も知らない。これは国民が無知だからである。その暗闇を照らすには、新聞に勝る手段はないだろう」
青年論客・李承晩にとって新聞は、閉ざされた国民の目と耳を開く啓蒙の道具であった。改革への志を抱いた李承晩は、西洋宣教師や開化派の知識人たちと交わり、文明や近代国家の特徴を理解し学び取ろうと努めた。当時、東西の先進国はいずれも新聞を通じて国民に内外の消息を知らせ、国家発展への参加を促していたのだ。
李承晩は、ワシントンやロンドンといった西洋だけでなく、東京の新聞社が自国社会に及ぼす影響力にも注目した。彼が特に挙げたのは、福澤諭吉が創刊した『時事新報』であった。これは「日本近代化の父」と呼ばれる福澤が創刊した新聞であり、日本国民の文明開化に大きな役割を果たしていた。大韓帝国の国民もまた時代の潮流に追いつく必要があったからだ。
李承晩は、ソウルに新聞社を設立することが急務だとみた。培材学堂在学中、協成会で発刊した『協成会会報』が政府と学校の検閲を受けると、彼は独自に新聞を発行するに至った。それが1898年4月9日に創刊された、韓国初の民間日刊紙『毎日新聞』である。社長兼主筆を務めた李承晩は、国内外の主要なニュースや自由思想を国民に伝えた。
純漢文の『漢城旬報』とは異なり、李承晩の『毎日新聞』は一般国民が読める固有語で発刊された。世宗が1446年に創製したにもかかわらず、朝鮮の支配層により軽視されてきたハングルを、李承晩は国民の啓蒙のために取り戻そうとしたのである。その後、『帝国新聞』へ改刊してからもハングルの使用を貫き、長らく中国の影響下にあった漢字から「文字の独立」を実現しようとした。
青年論客・李承晩は、国家主権を脅かす列強の外圧に抗し、国家の利益を守れない高宗政府の無策ぶりを批判した。当時、外国公使らは従順な政府官僚よりも急進的な民間新聞を恐れた。『毎日新聞』がロシアとフランスの租借要求の事実を暴露し庶民にまで余波が広がると、両国の公館は大韓帝国政府に抗議した。公使らが外交機密漏洩の経緯を追及し、『毎日新聞』への処罰を求めると、大韓帝国の外部(ウェブ、外務省に相当)は新聞社の関係者を召喚した。関係者は逆に政府の誤った対外交渉の姿勢を批判し、国のため国民に知らせるべきことを知らせただけだと答えた。
青年論客・李承晩は、国家と国民の主権を守るため、日本側メディアとの激しい論戦も避けなかった。朝鮮半島で、日本人による韓国人への暴行事件が発生すると、『帝国新聞』の李承晩は「大韓人、暴行被害の事実」という見出しの論説を通じ、事件の全貌を明らかにして不当性を糾弾した。すると日本人が発刊していた『漢城新報』は、日本人の暴力を擁護し、『帝国新聞』と記載員(記者)李承晩を非難した。『漢城新報』は日本の外務省と駐韓日本公使館の支援を受け、日本人がソウルで運営していた日本の新聞であった。
李承晩はすぐに反論し、「このようなことで責めを受けるのは国のために大きな栄光だ」と応酬した。無策の政府が守れなかった大韓の自尊心を、気迫に満ちた青年論客が守ろうとしたのである。
青年論客・李承晩は、国権の保護と国民への啓蒙のために筆を執る闘士であった。当時、列強の公使らは李承晩の新聞を「数万の軍隊よりも恐ろしい」存在と見なした。後に国際舞台で強大国を相手に言葉と文章で闘った指導者・李承晩はこのようにして形づくられていったのだ。
(続く)
1898年、李承晩が発刊した韓国初となる固有語(ハングル)の日刊紙『毎日新聞』(提供:李承晩大統領記念財団) |