50番歌には藤原京の建設の目的が出る。
持統天皇は草壁皇子の死後、飛鳥淨御原宮を去ることにした。宮の気が衰えて、草壁皇子を庇護してくれなかったため長寿できなかったと思ったはずだ。
藤の木が生い茂った野原に新たに宮殿を建てることにした。草壁は、壁を這いのぼる蔦の蔓だ。藤は、ツタのつるよりもっと大きくて太い蔓だ。藤原という一節に永遠にしてほしいという念願を込めたはずだ。
草壁皇子の権力が、死後にも永らく続くようにするため宮の名前をつけ、皇子が居住して日本を治める地上の住みかとして藤原京を建てた。
息子をそばに置きたい母の心が、藤原京を建設する原動力だった。
この歌は藤原京が竣工した頃に作った作品だ。
工事の現場で働いていた人が作った歌だと万葉集の題詞に記されている。彼が、郷歌をもって持統天皇を補佐していた歌人の柿本人麻呂だった。
歌う歌人も、他の官吏たちも総動員されたのだ。
人麻呂を除いては古峰峻嶺のような作品を作れる歌人は以前にもその後もいなかった。
万葉郷歌は、人麻呂によって古峰峻嶺を整える作品に型が決まる。
この作品は持統万葉の絶頂の歌だ。
力が強く噴きさしてくるこの歌は人類史の作品と言えよう。
日本人よ、千年の眠りから目覚め、万葉集の50番歌を永遠に誇りなさい。
次回からは持統天皇の死亡とその後の古代史が展開される。日本書紀に記された内容、古代史の息やその現場に向かい合うことになる。持統は天智天皇の娘として生まれ、叔父の大海人皇子(天武天皇)に嫁ぎ、夫と一緒に壬申の乱を通じ権力を握った。だが、実力が権力を決めた骨肉相食む時代を生き抜いた持統天皇は当然、数多くの怨恨を買った。万葉集は、万葉を花咲かせた持統への恨みを同時に記録している。
万葉集の古峰峻嶺 持統万葉の絶頂(万葉集50番歌) <了> |