前回まで高句麗遺民たちが建国した渤海について勉強してきたが、この時代、北方だけでなく韓半島全体が揺れ動いた時代だった。7世紀末に韓半島を統一した新羅は8世紀末から9世紀に後継者争いで混乱をきわめ、さらに飢饉にともなう農民一揆も頻発、急速に国力を落とした。このような状況のなか各地の豪族や貴族たちも私兵を集め各地で反乱を起こし新羅を分裂させた。
新羅が分裂して新しい国が三つできた。この時代を後三国時代というが、日本ではほとんど知られていない韓半島の歴史である。
新羅を反乱、分裂させて新しくできた国、そして派生した国はこの三国である。
●後百済=892~936年。
●後高句麗(後に秦封などと国名を変える)=899~918年。
●高麗(後高句麗を滅ぼして建国)=918~1392年。
三国とも唐と連合した新羅に滅ぼされた国、あるいはそれを匂わせる国名を名乗っているのが興味深い。韓国の人はとりわけ同族(同根)・同郷意識が強い国民性を持つ。滅亡後200年以上経って復活した国々…一体どのような人、関係によって名づけられたかという点も気になる。
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899年には半島中部の広大な地域を支配、後高句麗を建国したのは弓裔。その出自は新羅の48代王・景文王の庶子だと自称したがよくわからない。もしそうだったとしても骨品制という厳しい身分制度のなかで王族から疎外され、うとまれて育ったと思われる。10歳で江原道の僧院に出家させられていたというが、その後はというと、寺を脱出、盗賊の手下や地方豪族の配下として頭角を現し、国力衰えた新羅の半島中部を奪い、後高句麗を建国してしまう。しかしやがて自身を弥勒菩薩の生まれ変わりとしたり、暴君化したため人心を失う。最も有力な部下であり、海上貿易で財を成していた王権のクーデターによりわずか19年で国は終焉。弓裔は逃亡中に民衆に撲殺されたと伝わる。
その立役者たる王権は国の名を高麗とし、その後470年も続く大国の祖となる。
弓裔は国名を19年の間に後高句麗↓摩震↓泰封と替えている。高句麗という国名にそれほどのこだわりはなく、その支配地域から閃いたのではないか。高句麗との関連でいえば、高句麗の栄光を継承するという意味で国号を高麗とし、出身地の開城を王都とした王権にこそ正統なこだわりがあったのではないか。
次に取り上げる後百済は、その成立から滅亡までの44年間は後高句麗以上にドラマチックだ。
後百済建国の立役者となったのは慶尚北道の豪農出身で新羅の将軍であった〓萱であった。全羅道を管轄していたが892年、農民一揆に乗じて挙兵。光州を拠点としたが、新羅に反目する地域性があるため、民の支持を集め旧百済の全域に領土を広げていく。同時に、920年にはできたばかりの高麗とも戦端を開く。高麗との戦いは互角であったが旧百済時代の盟友、日本に何回も援軍の派遣を要請しているのが興味深い。旧百済時代の濃密な関係が記憶の奥にあったからだろう。しかし、もはや日本にあの時代にこだわる人は存在せず、なしのつぶてだったと伝わる。
後百済は926年にはついに新羅の都、金城に進攻し制圧。55代の景哀王を自死させる。この金城攻防戦には新羅救援のために高麗が援軍を送っているが、後百済に大敗を喫して後百済優勢となる。
その後の高麗との戦いは時に休戦協定を結んだり、また戦ったり膠着状態が続いたが930年の戦いで後百済が大敗して潮目が激変。形勢逆転に動揺し、内部分裂してしまったのだ。935年に長男以下三男までが手を組んでクーデターを起こし、〓萱を幽閉し、後継となるはずだった四男を殺してしまう。裏切られ怒った〓萱は幽閉地から脱出して高麗に投降。王権に息子たちを討伐してくれと要請し、一年後の936年6月に、共に戦い後百済を滅ぼす。王権は〓萱を国賓として優遇したが、間もなく世を去ったという。後三国時代というのは、いやはやすさまじい時代であった。
弓裔も〓萱も、そして王権が旧国とどのような繋がりがあったかはわからない。しかし父系血族による系譜の継承は韓国人の最も重要なアイデンティティーなのだから、何百年経っていようと忘れられないものだったのだろう。日本では後鎌倉も後豊臣も生まれなかった。お家復興で戦ったといえば安土桃山から戦国時代に山陰の尼子氏のために奮闘した、知る人ぞ知る山中鹿之助くらいなものだろう(赤穂浪士はちょっと違う)。四代前はおろか、三代前の祖先の名を言えない大多数の日本人と、韓国の人の国民性の違いを感じる後三国時代である。
後百済勢力は今の全羅南道光州市を拠点に全羅北道の全州を押さえ百済時代の領土の5分の3ほどを回復した。領土は小さかったが強かった
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