四天王寺ワッソをする意義とは
出張で訪れていたニューヨークで運命の出会いが訪れた。アイルランド系移民によるセント・パトリック・デイのパレードだった。思い思いに緑のものを身につけ、バグパイプを吹きながらのパレードを目にし、父は古代において迎賓館の役割を果たした四天王寺を目指して谷町筋を練り歩くパレードを思いついた。
「夢物語」級の壮大なスケールのアイデアに祖父は最初顔をしかめた。熱心に説得にかかる父に対して祖父は否定的な反応を示す。それが繰り返された。そして白熱した議論が親子間で交わされた。費用も莫大となる四天王寺ワッソをする意義とは。父の答えは
「在日同胞が自分のルーツに自信を持ち、胸を張って日本で生きていく勇気の創出」
であった。
祖父を説得した父はすぐにお祭りのプロデュースに取り掛かった。歴史考証に日韓両国の古代史の権威である金元龍ソウル大学教授、上田正昭京都大学教授が参加し、それぞれの古代国家の踊りや歌などはソウルオリンピック閉会式を企画をした許圭氏に依頼。
興銀の職員もサムルノリや踊りを習いに1ヶ月韓国で訓練を受けた。興銀の資金提供と取引先の後援金で予算が26億円集まった。大きな舟だんじりから小道具まで徹底的にこだわった。第一回目のワッソの時に私が一番驚いた「こだわり」。パレードに朝鮮半島から渡ってきた仏僧に扮した興銀の男性職員のグループ。なんとみんな頭をつるつるに剃っての参加だった。
第一回目のワッソ。
「友情は1400年の彼方から」
と古代の衣装に身を包んだ人々がワッソ、ワッソと当時の迎賓館である四天王寺の石舞台をゴールに谷町筋を練り歩いていた。華やかなパレードに参加したほとんどの人は在日韓国人で、街頭に立つ数十万の見物客を目にし、誰もが高揚していた。父が望んでいた
「在日同胞が自分のルーツに誇りを持つこと」
ワッソはその役割を大きく果たした。父はワッソがまた、大阪を盛り上げる祭りになることも望んだ。父は自分のアイデンティティー、在日同胞のアイデンティティーは日本、韓国どちらかの国だけに根ざすものでなく、二つの国の交流にあるという信念があったからだ。
関西興銀が破綻し、一時お祭りの開催は中断されたが、三洋電機の井植敏会長がワッソ復活に惜しみないサポートの手を差し伸べてくださった。祖父はそのことをずっと感謝していた。復活したワッソは父が望んでいたワッソのもう一つの役割、大阪を盛り上げる役割を果たしている。
復活したワッソの会場は難波宮跡だ。参加者の多くは学生で、日本の大学、高校、そして民族学校の学生たちである。規模はぐっと縮小されたが、日本の高校のブラスバンド部の生徒たちが朝鮮半島の古代人に扮して音楽隊を構成していたり、民族学校の伝統芸能部の子どもたちが披露する素晴らしい演技を見ていると、この若者達が亡き父の遺志を継いで、将来「韓日交流」に大輪の花を咲かせてくれることを期待せずにいられない。
 | 父が総監督を務めた四天王寺時代の「ワッソ」 |
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