さらに聖王(聖明王)の第1子の阿佐太子が、聖徳太子という説もある。周知のように第3子の琳聖太子は、推古19年(611)に、周防国佐波郡多々良浜(防府市)に上陸し、周防国大内県(山口市)を賜り、大内氏の始祖になったとされる。
『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』や『上宮聖徳法王帝説』によれば、欽明7年に百済聖王(聖明王)は日本へ太子像と漑仏の器、経教、僧等を贈ったとあるが、欽明7年は538年で、宣化3年ということになる。宣化3年と書かず欽明7年と書いているのは宣化が大王の位にいなかった、つまり死んでいたのか、殺されていたとする「百済本記」の「太子、王子共に死んだ」という伝聞記事を傍証するものだということだ。
結論として、70歳で即位し、在位3年余りの73歳で死去したとされる宣化は、実際には即位しておらず、宣化朝は存在していないと見るほうが事理にかなうように思われる。宣化の子を孺子と表現する記録もあるそうだが、孺子とは一般には、若造とか青二才というさげすみの言葉だそうだから、宣化の子をそのように表現するのも、どこかおかしい気がするのだ。
『日本書紀』の編著者は、ありえないことを記録することによって、史実ではなかったこと、つまり宣化の即位はなかったことを示唆、伝えたかったのかもしれないと思う。いずれにしても、宣化は新羅系山陰王朝と関係が深かったように感じられる。
〝韓隠し〟ゆえに魑魅魍魎の古代史に
70歳というあまりにも高齢の宣化の即位はあり得ないと考えられ、宣化朝は存在しなかった可能性が高いことを明らかにした。「辛亥年に日本の大王及び太子・王子が同時に死去した」という〝辛亥の変〟により、宣化も殺されたと考えられるからだ。
あるいは高齢であったがために、それなりの勢力ができていて殺戮ができなかったか、それとも殺戮の対象外であったとも考えられ、難を逃れた可能性もある。難を逃れたとしたら、新羅系山陰王朝の勢力は宣化を立てて、朝廷の正当性を問う戦いを、欽明朝と繰り広げたとも考えられる。
とまれ”辛亥の変”は倭国=沸流百済が、韓地の温祚百済にとって代わられた政変であることを明らかにした。それは、百済の実体が変容したことを意味する。すなわち、欽明朝以前の百済は沸流百済を意味するものであり、欽明朝以後の百済は温祚百済を意味している。
その両方の百済を一緒くたにしているから、日本の古代史の謎が解けずに、ああでもない、こうでもないという屁理屈の論述が展開されているのだ。 |