韓国は米国側との定例的な防衛産業協議会のため韓国防衛産業振興会を発足させた。政府の主管で49社の防衛産業代表が1975年10月26日、協議機構の創設を議論、社団法人・韓国精密工業振興協会の発足を決定した。そして76年1月15日、「韓国軍需産業振興会」に名称を変えて創立総会を開いた。その後、名称をまた「韓国防衛産業振興会」に変え(79年3月5日)、世界の主要防産展に参加するなど堂々と活動するようになる。
朴大統領は、重化学工業化が防衛産業を育成するための政策であることを隠さなかった。栗谷事業のための「防衛産業育成会議」は77年からは大統領が主宰する「防衛産業振興拡大会議」に拡大、開催される。商工部は第3回会議(78年8月)のとき航空工業育成計画を樹立した。
韓国の原子力開発は李承晩大統領から始まった。李大統領は、最初の国費留学生に原子力分野も送るようにした。外貨資金が不足した当時、駐韓米軍将校夫人会がお金を集め留学生を支援、留学生たちが米国の各州の将校夫人会から支援を受けるように斡旋したと伝えられる。李大統領は、政府の組織に原子力担当部署(原子力科)とソウル工科大学に原子力工学科を創設した。原子力法を制定(58年3月)し、原子力院(後に原子力研究所)を設立(59年2月)、院長に副総理級を任命した。研究用原子炉(TRIGA Mark2)も導入した。
朴正煕大統領は原子力開発の実質計画を発展させた。69年5月、原子力委員会(原子力庁の傘下)が樹立した原子力研究開発中長期計画(12年計画)には、第3次5ケ年計画(72年76年)期間に核燃料サイクルに対する技術研究と核燃料の安定性研究を行い。特に、第4次5ケ年計画(77年81年)で再処理施設確保計画を含めた。
朴大統領から防衛産業の育成と原子力エネルギー政策の推進を指示された呉源哲青瓦台経済2首席秘書官は、核兵器技術力確保に必要な研究課題を、保安維持のため国防科学研究所、韓国科学技術研究所など7つの機関に分散させた。
呉源哲首席が72年9月8日作成した「原子核燃料開発計画」報告書には、「核兵器の種類と開発方向」、「高純度プルトニウム生産方案の比較」などが含まれた。報告書には「過大な投資を要せず、若干の技術導入と国内技術開発で生産可能なプルトニウム弾を選択するのが妥当」と結論を下し、原子力発電所はプルトニウムも得られ発電もできる重水爐型原子炉を建設すべきで、74年から原子力発電所建設を推進、80年代の初めに高純度プルトニウムを生産すると計画された。70年代の原子力開発事業は概ねこの計画通り進められた。
核兵器を開発するには、核燃料(核分裂物質)の確保、核弾頭の設計技術、運搬体が必要で、韓国は、前述した中長期計画により、米ウェスティングハウス(Westinghouse)社が設計した加圧軽水炉方式の古里1号機原子力発電所を70年11月に着工、77年完工、78年4月から商業運転を開始した。原子力発電の使用済み燃料再処理のため、71年に嶺南化学が米NFS(Nuclear Fuel Services)社と合弁、再処理事業を推進するようにし、韓国原子力研究所が参加した。しかし、NFS社が米政府の承認を得られず再処理施設は中断された。72年初め、原子力研究所は姉妹関係の米国立アルゴン研究所(ANL)に再処理分野の技術訓練を要請したが拒否された。
(つづく) |