朴忠弘は青年時代から多くの時を「大阪興銀」で過ごした。会社員として生きた時間がすなわち「興銀」と歩んだ時間だった。栄光を手にした瞬間は昨日のことのように鮮やかに思い出される。10期連続で営業成績トップを獲得し、興銀史上最年少となる33歳で支店長に抜擢。その後、40歳という若さで取締役に就いた。
全盛期だった90年代に「日本の都市銀行へと飛躍させる」夢を抱いて駆け抜けた。1993年、「大阪興銀」を軸にして神戸、滋賀、和歌山、奈良の在日同胞系金融機関が合併し、「関西興銀」へと生まれ変わる。
しかし2000年12月16日、日本の金融当局による職権破綻が確定した。一夜にして「興銀」が没落してしまったのだ。我が子のような存在であった「興銀」の倒産は、朴忠弘にとって受け入れがたいものだった。
無念の思いは収まらない。不良債権はあったが、「興銀」の体力はそれにも耐えうるものだった。赤字を黒字へと転換させ、不良債権に対する充当金も積み上げた。
そうして資本の安定化を図っていた矢先、破綻宣告を受けた。まさに寝耳に水だった。会社の財務役員だった朴忠弘にとって、とうてい理解できない通告だった。当局の勧告を忠実に履行していた「興銀」としては、裏切られたような気持ちだった。
「起きてしまったことはしかたがない…」創業者の李熙健理事長は自宅まで処分し、事態の収拾に全力を尽くした。最も悔しい思いをした創業者が事態の責任を負い、各方面に謝罪をして回る中、戦い続けようと言い出せるはずがなかった。
「敗軍の将は兵を語らず」の言葉どおり、李熙健理事長は実直だった。企業の倒産は、顧客と出資者、社会に大きな損害を与える。いかなる理由や事情があれどもその現実から目を背けることは許されないのだ。「興銀」の破綻は朴忠弘の人生において最大の「負の遺産」だ。
「多くのお客様と同胞にご迷惑をおかけしました。言い訳のしようもなく、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいです」
朴忠弘は倒産後、経営難に陥った企業を支援する仕事を始めた。その後、「興銀」のOBたちと共に「トラストパートナーズ」(現在のトラストグループ)を立ち上げた。危機に瀕した企業の再生を支援し、経営ノウハウをコンサルタントする会社だ。
寿司や焼肉などの外食産業にも進出、メニューの品質維持や接客サービスの向上、清潔をモットーとしつつ、美味しい食事を提供することに尽力した。
3000冊の本を読破した読書家でもある朴忠弘にとって、最大の関心事は社会貢献だ。在日同胞による祭り「ワッソ」の理事長を務めたのも、在日同胞のネットワークを強化し、韓日親善交流の場を提供し続けていきたいからだ。そして後世にバトンを渡し、「ワッソ」を支援し続けること。それは朴忠弘の生涯にわたるミッションだろう。
「父が名付けた忠弘という名前には、偽りのない心、つまりどこまでも誠実でいるように、との意味が込められています。残りの人生は『知行合一』と『至誠』の道を歩んでいければ本望です。ただ、善行を重ねることに最善を尽くして生きたいのです」
(ソウル=李民晧/取材協力=在外同胞庁) |