大友皇子が叔父の大海人皇子と和合できず壬申の乱が起きたと言っている。これは、乱を起こした大海人皇子を庇う一方、和睦できなかった大友皇子を批判するものだ。たとえ勢力が今は六だとしても和合して二を加えることになれば、八の勢力になるとしている。八という数字は非常に大きいことを意味する。四通八達などでその例が見られる。
32番歌である。
古 人尒 和礼有哉
樂浪乃 故京乎見者 悲寸
十代にも渡って、口から口へと伝えよ。
人々は和合して礼を尽くして過ごさなければならなかった。
楽浪の昔の都を見ると、悲しみの涙が滴り落ちる。
天智天皇の死後、数カ月も経たず壬申の乱が起きた。そのために正式な葬儀がなされず、天智天皇の臨時陵は放置されていたはずだ。壬申の乱の後、天武天皇の皇后となった鸕野讚良が父親を畝傍山橿原に改葬することにした。
この時、鸕野讚良は万葉郷歌の歌人たちを送り父親の魂を慰めた。娘として、壬申の乱を起こさねばならなかった、やむを得ない事情を父に話し赦しを乞うている。
これらの歌が娘を天皇の座に就かせる魔力を発揮した。そのため、6首の作品は万葉集に収録された。
万世一系の皇統は、万葉の歌声と共に飛鳥川のように流れた。日本の歴史を貫き、また巨大にうねり屈折した。万葉の歌よ、歴史の歪みよ、鸕野讚良の人生よ!
次号からは持統天皇について解説する。持統天皇の切ない心から生まれた歌々を「持統万葉」という別称で区分し、皆さんが知らない万葉集の世界に誘いたいと思う。
万葉集の母 鸕野讚良 うねり継がれる皇統(万葉集28・29・31・32番歌)<了> |