高校時代、朴忠弘は大学への進学を断念した。昼夜、畑仕事に明け暮れながら2男3女を育てる両親に負担をかけることが憚られたからだ。
進路に悩んでいた頃、3歳年上の先輩から紹介された企業が「大阪興銀」だった。社内は和気あいあいとしていた。社員は皆「同胞」だったことも手伝ってか、まるで家族のような雰囲気だった。
(写真左)「大阪興銀」時代の朴忠弘
1961年に入社した当時の月給は、業界の平均年収の半分にも満たない9800円だった。生活は苦しかったが、勤務年数と共に上昇していくものと信じていた。しかし、待てど暮らせど待遇は一向に改善される気配がなかった。困窮していた社員たちは、意を決して理事長室の扉を叩いた。「他行と同レベルの待遇を求めているわけではありません。ただ、最低限の生活がしたいだけなのです」
すると、黙って耳を傾けていた李熙健理事長が口を開いた。「すべて皆さんのおっしゃるとおりです。しかし、今は現実問題として皆さんに払えるだけの資金がないのです。預金残高が増えれば、必ず待遇を改善すると約束します」
「そこまでひどい財務状況だったのか…」不満から始まったストライキは一転、社員を団結させた。「頑張るぞ!!」
その日を境に社員たちは猛烈な働きぶりを見せ、預金の誘致に全力を尽くした。そして5年後の68年3月、「大阪興銀」は預金高100億円を突破、在日韓国人の金融史上初となる偉業を達成した。
これに伴い社員の給与も増え、大学に通うこともできた。仕事と勉強の両立で多忙を極めたが、退勤後に必ず天六キャンパスに通った。努力の甲斐あって、関西大学で経済学の学士号を取得した。
勤務先の「大阪興銀」は順風満帆だった。全国の信用組合500行のうち、最下位からスタートした預金残高は、72年に300億円、74年に500億円、78年には1000億円を達成し、順調な伸びを見せた。そしてついに91年、「高い壁」とされていた預金残高1兆円を突破、一定規模の地方銀行をしのぐ超大型の同胞系金融機関へと躍り出たのだ。
「超スピード成長を遂げた秘訣は『在日同胞社会を発展させる』という使命感でした。在日同胞のレベルを日本人以上に高めようという明確な目標がプラスに働いたのでしょう」
「人材力」を育てるシステムと、李熙健というリーダーの存在が大きかった。両者が見事に調和したことで、一人では成し得なかったことが可能となり、「興銀」の奇跡的な発展につながったと朴忠弘は確信している。
「40年間の会社員生活で、自分が『雇われ人』であると思ったことは皆無でした。常にオーナーマインドで仕事に臨んでいたからです。ゼロベースからスタートし、最下位だった『興銀』がトップになったのは、従業員が皆そのようなマインドを心に秘めていたからです」(つづく)
(ソウル=李民晧/取材協力=在外同胞庁) |