本年(2025年)、新年早々の1月5日、李恢成氏の訃報に接しました。
この李恢成さんと私は若干の因縁がありました。1972年に「砧をうつ女」で芥川賞を外国籍者で初めて受賞した李恢成さんは、35年サハリン(樺太)西岸の真岡町生まれです。10歳のころ、「砧をうつ女」の母親を亡くされています。
私が親しかったサハリンの朴享柱さん(本稿5)は、その李恢成氏の兄と真岡中学の同窓生だったはずで、しかも李家の妹を妻としたほど親しい関係でした。ところで、李恢成氏の一家は戦後直後、日本人の引き揚げ者とともに帰還し、そのまま北海道に住んだのです。
李恢成さんは一時、朝鮮総連に属しており、「南であれ、北であれ、わが祖国」との心情を有していたところから、サハリンから韓国(ほとんどが南の出身でした)への永住帰国を目的とする私たちの運動には疑問を持ったようでした。
特に、私たちのサハリン残留者帰還請求裁判の「訴状」で、原告らが「日本国籍を有する」と規定したのは、「植民地残滓思想のあらわれ」ではないか、とまでいうのです(「サハリン再訪」民涛5号、1988・11、250頁)。
このように言われるのは心外でした。私たち弁護団はサハリン残留朝鮮人の法的地位を考えるにあたり、日本国籍を有していた朝鮮人も52年のサンフランシスコ平和条約の発効(52年4月)までは、未だ日本国籍を喪失していないとするのが日本政府の考え方であったことを前提としています(同年4月19日民事局長通達)。
原告らは戦前、明らかに日本国籍を有しており、戦後しばらくは本籍地の大韓民国はソ連との間で国交がなく外交権を行使できないため、私たちは本邦へ帰国するまでは社会的にはともかく、法律的には日本国籍を喪っていないと言えるので、原告らを排除した日本国の引き揚げ行為は違法だと主張したのです。
また、李恢成氏は、この問題は「祖国の分断が生んだ民族離散の一つの現象」だと考え、この問題が抜本的に解決されるためには「民族の統一」が何よりも大切なのだとするのです。
このような統一優先の立場を理解しても、原告らは自分自身の持ち時間が少なすぎるのをわかっているのです。
理念も大事でしょうが、今できることから始めるのも重要だと考えたのです。そして、私たちは被告の日本国は、かつて原告らを強制連行しながら原状回復しないまま放置した立場であるので、せめて帰国のためのパスポートに代わる「渡航書」を発給するべきではないかと裁判で訴えたのです。
このように私たちの運動に一部批判的だった李恢成氏も、私たちがその後、李恢成氏の親族をも日本に招待したことから、好意的になり、感謝とともに、私たちの運動を評価してくれるようになりました。なにしろ、私は88年頃から90年までサハリンから約1000人を招待、再会を実現させていたのです。
また、2003年11月15日には、旧知の徐龍達氏(桃山学院大学名誉教授)の主催した研究集会「ロシアの韓朝鮮人問題と日本」に李恢成氏と共に私も招待され、共に基調報告をしました。その徐龍達氏は、国公立大学の外国人教員任用運動や「在日韓国奨学会」を設立し、1000人以上を支援するなど尽力された方です。
私は奈良のご自宅に関するトラブルの相談を受けたことから、ご自宅を訪問したこともあります。この徐龍達氏も残念なことに作年11月25日に亡くなられました。
お二人に対し、哀悼の意を表します。 |