先祖の真摯な事績に対し、泥を塗りかねないという誠実さを現代に生きる私たちは取り戻す必要があるのではないかと思われる。
応神=王仁(おうじん)が王仁=和珥(わに)と読 まれるカラクリ
「未知の世界から忽然と現れた」応神と形容される応神朝は、謎の4世紀とされる時代に登場した新王朝だとされているのだが、悪意の”韓隠し”を暴露し真実の歴史を求める新解釈の古代史であることを自負し、応神を徹底追究すると、応神朝は、沸流百済と和珥氏族との両面王朝であることを突き止めた。
さらに、その当時の和珥氏族の実体は、京都は丹後の海部氏勢力であったということを明らかにした。それは、和珥氏の祖とされる難波根子武(建)振熊が、丹後と縁の深い人物であることから傍証される。建振熊は、ホアカリ18世孫で、丹波国造であった。
ところで、応神朝に百済から論語と千字文(漢字)を将来し渡来した王仁のことだが、王仁という語は、どうひっくり返してもワニと読めないはずなのに、ワニと読んでいる。王仁を韓国語で読むとワン・イム↓ワニとなり、王様という意味になり、そこに大きなカラクリがあることを発見した。
つまり、応神=王仁(おうじん)が王仁=和珥(わに)と読まれるカラクリだ。それは、王仁が応神であり、王仁は和珥でもあるということで、応神朝が、沸流百済と和珥氏族との両面王朝であったということを傍証するものとなったことだ。
和珥氏族の実体は京都は丹後の海部氏勢力
『海部氏勘注系図』によれば、息長足姫(神功)が新羅国に遠征した際、丹波・但馬・若狭の海人300人を率い、水主となって奉仕し、凱旋して勲功により若狭木津高向宮で海部直の姓を賜わり、楯桙も賜わって国造として奉仕したという。応神の世に、海部直は、丹波直、但馬直にもなり、死後、熊野郡川上郷安田に葬られたとされている。それは、建振熊が応神朝を支えたことを意味する。
新羅系山陰王朝は、応神朝以前に、日本海沿岸に展開された新羅系王朝を指称するのだが、当初は出雲国が宗主国であったと思われる。その後、アマノヒボコ(天日槍)らの渡来などがあって、実権が但馬、丹後、若狭へと移行していったと考えられる。
沸流百済の大和侵寇によって突如樹立された百済系大和王朝である応神朝の成立直前は、若狭は敦賀にアマノヒボコ系の大王が存在していたと思われる。
それゆえ、誉田(応神)は気比大神と名前を交換したと思われるのだ。そして、河内・大和地域を領知していたのが、古くからの雄族である和珥氏族で、沸流百済はその和珥氏族を取り込み、傀儡としてしまったと考えられる。 |