韓米関係は非常に複雑な構造、事情を持っていた。韓米同盟は出発から対等な同盟ではなかった。そもそも、第2次世界大戦後、米国やソ連と対等な同盟を結べる国家などは当然、存在しなかった。新生大韓民国は、戦争の廃墟から、安保と近代化、経済発展のため韓米同盟が切実に必要な状況だった。反面、米国としては、米国の利益に寄与する現地の代理人の役割を期待し要求した。
米国が現地の代理人を同盟として米国の国益に利用したのは、歴史的にアングロサクソンの植民地経営からくる伝統かもしれない。特に、少ない人口で膨大な植民地を経営した英国は、彼らの協力者(代理人)を発掘して植民統治や、覇権を維持するしかなかった。
米国は第2次大戦勝利後、米国の覇権構図を作るのに必要な人材なら、ドイツと日本など敗戦国の人材も積極的に利用した。思想は問わなかった。ソ連との対決、つまり東西冷戦には、ナチ将軍と政治家たち、ヒトラーの政治将校と情報専門家たちが大挙、西ドイツ再建とNATO建設で核心的な役割を担った。
新生国や後進国は、国家建設に外国の支援を望む。共産陣営の場合、元々社会主義革命という「大義」を前面に出して支援と干渉を当然と看做されたが、民主政治体制を標榜する大多数の後進国でも政治家たちは西方先進国の支援を期待する。彼らは「外勢」を呼んで、自分を支援する先進国の立場を代弁した。
事実、ソ連は1960年代からアフリカの植民地からの独立や第3世界に対し膨大な支援をした。資本主義国家が利益を期待して援助し、影響力を拡大したのに比べ、ソ連は社会主義兄弟国に対する支援は当然、ほとんどが無償支援だった。
北韓側はこの無償支援の恩恵を享受した。中ソの両方から受け取った。平壌側は支援を受けた代わりに、モスクワのためアフリカを中心に多く軍事支援をした。
民族的自主意識が透徹した朴正煕大統領が直面したのは、共産主義者だけではなく、いつの間にか米国の「代弁人」「代理人」となった野党政治家たちだった。彼らは「民主主義」という名分を掲げ、革命政府・軍事政権の施策に全面的に反対した。米国の政治家たちは、米国の支援を求める人々を彼らの代理人として最大限利用した。
事実、ソウルの米国大使館は最初から常に米国の利益を代弁する政治家を探してきた。6・25戦争中にも李承晩大統領を失脚させようとした米国は、朴正熙の自主路線を危険と見た。朴東宣事件をきっかけにフレイザー委員会をはじめ、韓国を独裁政権に決めつけた政治家たちや国際的なネットワークは、金泳三、金大中など挑戦者たちを民主的政治家として支援することになった。
問題は米国の政治家たちが、共産党のような理念的基準もなく、彼ら自身がしっかり訓練されていなかったことだ。そういう面で、カーターの「人権外交」もぎこちないものだった。カーターは在任中、朴正熙政権の人権弾圧を問題として在韓米軍撤収を主張、朴正煕政府と衝突した。
韓国政府を監視・牽制することを主任務と考えた米国務省や情報機関はいつも新しい政治家たちを探した反面、在韓米軍の将星たちは概ね朴正煕大統領の立場を理解し支持した。
米国は膨大な軍事力、特に陸軍を保有する大韓民国は、ベトナム戦争を通じて証明された通り、米国のアジアの最大の軍事的盟邦で米国に貴重な戦略的資産でもあった。
(つづく) |