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2023年01月24日 12:04
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新解釈・日本書紀 応神<第68回>

(85)応神朝の大王は王仁(わに)
和珥氏の先祖について日本書紀は、天足彦国押人(あめたらしひこくにおしひと/孝昭紀)、老津(ははつ/開化紀)、彦国葺(ひこくにぶく/崇神紀)、武振熊(たけふるくま/神功紀)などと伝える。これらを見ても、古くからの氏族であるということがわかる。その〝ワニ氏族〟と応神朝に渡来した王仁とはどのような関係なのか。もちろん、前号で述べた書首(ふみのおびと)らの先祖である王仁氏族とは別と考えるのが当然だ。
しかし、そこには大きなトリックが隠されている。韓国語で王仁は「ワン・ニム↓ワニ」と発音され、和珥(わに)の発音に通ずる。また、王仁の音読みは「オウジン」で、応神(おうじん)にも通じる。すなわち応神朝は、王仁氏族と和珥氏族の合体王朝ということではないか。
それを傍証するのが、和珥氏族の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が太子であったという点だ。和珥氏族は古からの大族で、10人の大王妃を輩出している。奈良県天理市和爾町は王仁の後裔の村だとされているが、日本書紀・神武紀に和珥坂の記述があるように、王仁が渡来する以前から存在していた。
王仁が菟道稚郎子の師匠となって菟道稚郎子に影響を与えたということは、換言すれば沸流百済が王仁を介して和珥氏族を統属したということにもなる。それはまた、王仁を介して沸流百済が陰に隠れたという意味にもなる。
わかりやすく言えば、王仁が沸流百済の大王だったということだ。王仁一族が辰孫王(しんそんおう)を共通の先祖にしている点からも、それをうかがい知ることができる。すなわち、王仁は辰王(しんおう)の血脈に属する大王だということだ。
初期の沸流百済が、辰王の威を借りて国づくりをしたといわれるように、倭地でも辰王の子孫と目される王仁を立てて、百済系大和王朝の国づくりをしたのだろう。王仁が、太子である菟道稚郎子の師匠になったということは、王仁が和珥氏族の王朝を指導したということになる。つまり、王仁が実際の大王であったと解釈できる。
乗馬の風習は応神以後、渡来人が繁栄した河内地方で最も流行したとされる。奈良時代には、朝廷の左右馬寮に属していた馬飼部の戸数が河内国に159戸もあって、全国の3分の2を占めていた。王仁の後裔である武生(たけふう)氏は、もと馬史氏または馬首氏と呼ばれた。同じく王仁の子孫である文忌寸根麻呂(ふみのいみきねまろ)の子が馬養(うまかい)と名づけられたことなどから、王仁一族は、政治、経済、文化、財務、軍事、交通の諸部門で活躍、一大勢力を形成したと見られる。
河内国一帯に古市古墳群が存在する。応神陵とされている誉田山古墳を中心にして、前方後円墳、方墳、帆立貝式古墳、円墳など87基からなっているそうだ。誉田山古墳の周濠から、魚類やクジラの土製品が出土しており、数多くの小舟がクジラの巨体に群がるようにして苦労して捕獲した様子が偲ばれるという。
阿知使主(あちのおみ)がもたらした馬を放飼した地を駒山といい、それに発語の伊が冠せられて、伊駒山になったと言われている。現在の生駒山である。伊駒山の古名は孔舎衙山(くさえのさか)だろうとされるが、定かではない。

2023-01-25 6面
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