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2022年11月08日 11:08
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新解釈・日本書紀 応神<第61回>
伴野 麓

(77)任那港は自由港に・つづき
倭(沸流百済)が任那港を自由に使用できるようになったことで、表面的にはあたかも倭に隷属するような形になり、そのため任那が倭の属国であるかのような大きな錯覚が生じた。それを最大限に利用したのが皇国史観論者であり、明治政府ということになる。
弓月君(ゆつきのきみ)が120県民を率いて渡来してきたころに、倭が平壌へ侵攻し高句麗広開土王に一泡ふかせている。その一軍は、はたして「日本列島の倭」なのだろうか。日本書紀は葛城襲津彦(かつらきのそつひこ)の任那派遣を記録しているのだから、当然に同一時期の倭の平壌侵攻を記載してしかるべきだが、その記載はない。それは「日本列島の倭」ではなかったということであり、「倭=韓地に残存した沸流百済の遺民」と考えればつじつまが合う。広開土王碑の碑文作成者は、沸流百済が滅亡し日本列島に逃れたことを知って、沸流百済を倭と表記したということだ。
「4世紀末から5世紀半ばまでの時期に、新羅が加羅へ侵入している史実はなく、新羅が加羅地方へ勢力を扶植するのは、どんなに早くても6世紀のはじめ以降である。したがって、弓月君の渡来記事は6世紀前半の継体・欽明朝のころの新羅勢力の加羅への進出を背景とする史伝に影響されて、挿入されたものである」という見方もあるが、そのような驚くべき史論は、沸流百済史が抹殺されたことからくるものだ。
新撰姓氏録・左京諸蕃に、「太秦公宿禰 秦始皇帝三世孫孝武王之後也。男功満王は仲哀天皇八年来朝。男融通王(一に弓月王という)は応神天皇十四年に来朝し、二十七県の百姓をひきいて帰化す。金銀玉帛らの物を献す」とある。
その系譜は、始皇帝→胡亥(こがい)皇帝→孝武(こうぶ)皇帝→笠区王→宗孫王→法成王→功満王→融通王(弓月の君)→真徳王→普洞王→秦酒公(はたのさけのきみ)→意美秦公→忍秦公→丹照秦公→河秦公→国勝秦公→河勝(川勝:かわかつ)秦造、という流れで、秦氏は、右京、山城、大和、摂津、河内、和泉など畿内のすべての国に分居している大勢力であった。

(78)秦氏は葛野地方に入植
箕子朝鮮や衛氏朝鮮が、中国から亡命してきた人たちによる国家であるとされている。秦の滅亡後、秦の人民が難を避けて韓半島へ南下して来たことは、大いにあり得ることだ。秦は紀元前206年に亡んだ。その直後に秦の人民が韓半島に南下し、応神朝の400年に渡日したのであれば、その間600年あまり韓半島で生活し続けたことになり、同化された韓人とみるべきだろう。その韓人が日本列島へ渡来すれば、同化された日本人ということにもなる。
秦の「ハタ」は新羅語の「パダ(海)」とされ、日本書紀、古語拾遺、新撰姓氏録などには「波陀」と表記されている。パダ=ハタは韓半島からの渡来人を指していたが、後に特定の氏族を指すようになったと考えられる。
日本書紀によれば、応神朝に秦氏の祖先である弓月君が120県の民をひきいて渡来した。淀川をさかのぼって桂川に沿う葛野地方に入植、先進の大陸技術で桂川を改修し、荒地を開拓して農耕や養蚕、機織業などを営んだと思われる。

2022-11-09 6面
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