朴正熙大統領は、事実上の「第2の6・25戦争」となった平壌側が送る特殊部隊・ゲリラたちを掃討、ベトナムと韓半島で同時に共産主義と激しく戦いながら、近代化のための大戦略を強行した。朴大統領は、安保危機を国民の意識革命の機会とした。連日、近代化のビジョンを発信し、各種起工式や竣工式に出席、経済建設の現場を歩き回った。国民教育憲章を宣言した直後の世界人権宣言日の記念式(12月10日)で、朴大統領は次のように演説した。
<人権の基礎は、理性と良識に基づく人格ですが、実際に、何よりも重要なのは人権を享受できる経済建設であり、法秩序の尊重です。経済建設なしには貧困を脱出できる道はなく、貧困を追放せずには人権を確保しようがありません。また、法秩序についても同じなのです。国民の一人一人が法を守ることを実行しなくては、社会秩序は維持できす、社会秩序が維持されず人権が確保できないのはあまりにも自明の事実なのです。われわれは、経済建設を急いで貧困を追放し、法秩序を守って社会秩序を確立し、あらゆる力量を集結させて共産侵略勢力を打ち破ることで、明るい人権の社会建設に邁進しなければなりません。>
政府は、戦略的にインフラの建設に優先的に投資した。「1・21事態」から10日後の1968年2月1日、予定通り京釜高速道路の着工式を行った。そして、11カ月後の12月21日、京仁高速道路(67年3月24日着工)と京釜高速道路のソウル水原間の開通式が行われた。京仁高速道路はアジア開発銀行から借款を一部得たが、韓国の技術と財源で建設した。世界で最も安い工事費と速い期間で建設された。
京釜高速道路は、世界銀行に借款を要請したが拒絶され、日本からの請求権資金27億ウォンと残りの資金400億ウォンは国内で調達した。ベトナム戦争参戦を通じて獲得した資金、特に派兵将兵たちが本国へ送金した資金が決定的だった。京釜高速道路は当時、日本の東名高速道路の建設費の5分の1の単価で建設した。
朴正煕大統領は、急速な近代化の過程に不可欠な高級人材の確保と職業公務員制度を定着させるため、限られた国家予算の中で奮闘せねばならなかった。事実、政府の予算配分は工場やインフラ建設が優先だった。最低生計費にも満たない賃金の公務員たちに、途方もない犠牲を強いたのだ。李錫済総務処長官が66年から公務員処遇改善5カ年計画を推進した。
李錫済総務処長官は、毎年20~30%の割合で給与を引き上げた。当時、大卒の下級公務員の給料は、アルバイトで家庭教師をする大学生の収入よりもはるかに低かった。公務員処遇改善5カ年計画が進行された後も、軍の初級将校たち、陸軍の小隊長たちの月給は、大都市ではなく田舎の下宿代くらいにしかならなかった。
韓国のベトナム戦参戦に対するジョンソン米大統領の感謝で誕生した韓国科学技術研究所(KIST)に、優秀な研究人材を確保するのにも困難を極めた。初代KIST所長となった崔亨燮所長は、海外から優秀な韓国人科学者を誘致するため、米国大学で受けた給料の4分1程度を提供することにした。それでも当時の国立大学教授給料の3倍以上だった。
国内で数多くの文句と非難が続いた。朴正煕大統領は、KIST所長の建議通り、研究員たちに大統領の給料よりもはるかに多くの賃金を支払うようにした。
(つづく) |