伴野 麓
(39)檀君朝鮮の歴史を表舞台へ
司馬遼太郎は「4世紀はじめに中国支配圏の楽浪がほろび、本来の朝鮮半島民族である高句麗がおこり、南鮮の小さな部族国家がほろんで、新羅・百済という広域国家ができあがった。この大変動によってはみ出たひとびとが、海をわたって応神王朝の傘下に入った。伝説上の学者である王仁や阿智使主といった漢文化を身につけたひとびとが朝鮮半島から渡来したとされるのも、この時期である。応神王朝は日本における最初の広域権力であろう」と述べている。
このように、王仁や阿智使主を伝説の人物にしてしまうのが、日本史学界の伝統的思考のようだ。その実体を解明しようとせず、伝説として曖昧模糊とした世界に誘導し、読者の判断にゆだねるといった方法だ。スサノオなどの故事も同様だが、日本には神話が存在しないと指摘する歴史家もいる。
日本の古代史が研究しても研究しても理解しがたいのは、沸流百済の存在を隠滅しているからだ。沸流百済が自らの存在を黒子にして歴史上から消えたとはいえ、そのまま歴史を考証しては真実に到達できない。
ここで、大きな誤解を解いておきたい。「韓民族は漢民族の影響下にあった」とする歴史観は間違いだ。青銅器文化の殷王朝の主要構成員と見られる苗族(ミャオ族)と韓民族とは、同じ東夷族として同根である。その殷王朝と並び立っていたのが韓民族を主体とする檀君朝鮮と考えられる。中国の三皇五帝の大半が東夷族であったということはそれを物語っている。
しかし、日本史学界は檀君朝鮮の歴史を滅却した。太古に韓地からの渡来人が日本列島に入植、開拓して、日本の歴史を刻んできたにもかかわらず、いつの間にか日本列島が韓半島を支配していたという歴史観を定説としてしまった。まさに驚天動地というほかない。
応神朝の記述は矛盾を内包している。これは後世の氏族伝承の形成過程で加上されたものを、日本書紀の編著者が応神紀に付託したとの見方もある。たとえば、都加使主(応神紀)と東漢直掬(雄略紀)は同一人物で、時空をこえた挿入との指摘がその一例だ。
根拠としては、「呉の王は縫女の兄姫・弟姫・呉織・穴織の四人を(阿智使主と都加使主に)与えた」(応神紀)と、「東漢直掬に命じて百済からつれて来た新漢(新しい渡来人)の陶部高貴、鞍部堅貴、画部因斯羅我、錦織定安那錦・訳語卯安那らを管理させた」(雄略紀)は、重複している内容だというものだ。また、応神紀に「阿智使主・都加使主が高麗国から呉へおもむく」とあるが、当時は高句麗と百済は争っており、倭国も高句麗とは敵対関係にあった。つまり高句麗から呉へ行った事実は疑わしい。
応神紀に登場する「高麗」は沸流百済と解すべきだろう。沸流百済は揚子江下流、すなわち呉の属域に分国を経営していた。阿智使主はその呉の属域に行ったとも考えられる。応神朝の時代にはまだ呉(南朝)とは通交していなかった。阿智使主は自分の故国に行ったのだ。現代でも自分の育ったところから働き手を引っ張ってくることがあるように、阿智使主も自分にゆかりのある地から衣縫女を連れてきたものと考えられる。 |