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2021年12月01日 00:00
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新解釈・日本書紀 応神<第25回>

(35)新羅王が奉った船大工

日本書紀・応神紀の応神31年条は、武庫の港で起きた船火災を記す。武庫は、務古あるいは牟古とも書き、務古水門は武庫地域にあり、今の神戸市あたりも武庫の境域だった。新羅王が奉った工匠が猪名部らの先祖とあり、彼らが住みついたとされる摂津国の為奈(猪名)の地は猪名県とも称され、河辺郡と豊能郡の旧名である。その時の新羅王は第19代の訥祇王(417~457)と考えられる。
地名辞書・摂津国にある西成郡宅美郷は猪名部の居住地とされ、現在の大阪市福島区あたりに比定される。この地は古来船大工らの居住地であった。対馬の上県郡にも伊奈があり、伊奈久比神社が祭られている。伊勢の員弁郡も元は猪名部で、摂津国の猪名部が移り住んだ地と伝えられている。
姓氏録・神別に「猪名部造、伊香我色男命6世金連之後也」とあり、物部氏の部民と記す。ニギハヤヒの後裔である物部氏が古来、工匠関係一切を統括しており、応神朝に渡来した新参の工匠らも物部氏一族に編入されたと考えられる。為奈氏には数流がある。一つは応神紀に記載される新羅の船大工の流れだ。二つ目は新撰姓氏録・摂津国諸蕃に、「為奈部首、出自百済国人中津波手之後也」とあり、百済人の中津波手の後裔だ。第三は、旧事本紀に、「饒速日尊供奉五部人中、為奈部等祖、天津赤占」とある天津赤占の後裔だ。これは物部氏族と見ていいだろう。

(36)「陵」の記述がないのは応神だけ


応神41年の春、誉田は明宮で崩御し、時に110歳であったといい、一説では大隅宮で亡くなったともいう。とすれば、応神は在位41年であるから69歳で即位したということになる。これは考えにくいことであり、何かが隠蔽されたとも考えられる。
応神紀には「陵」の記述がなく、同・仁徳紀にも父の陵を造営したという記述はない。神武から持統までの39人の天皇のなかで陵の記述がないのは応神だけで、奇妙というほかない。しかし古事記は、河内の恵賀の裳伏の岡にあると記す。
本居宣長著『古事記伝』は、「裳伏は河内誉田の地であり、百舌鳥は和泉の地であって、裳伏と百舌鳥の発音が似ているから、後世、裳伏の地に応神陵を押しあてた」と説くが、河内なのか和泉の地なのか、よくわからない論述だ。契沖(江戸前期の国学者)は、「応神陵は百舌鳥にあり、百舌鳥を万代と書いて、その地に八幡宮があり、陵に似ている山もあって、氏子は毎年正月の3日間、肉食をしない」と述べている。
誉田宗廟縁起は「応神帝、葬于河内国古市郡長野山、欽明帝始、改造廟而有行幸、聖徳太子亦有参詣、後冷泉御宇新造官社、去本所一町余」(応神帝を河内国古市郡の長野山に葬った。欽明帝が廟を改造し、行幸した。聖徳太子も参詣した。後冷泉帝の時、一町ばかり離れた所に新しく建立した)と記す。その地である大阪府羽曳野市誉田にある墳丘長425メートル、高さ35メートルの前方後円墳が、応神陵に治定され宮内庁の管理下にある。その応神陵古墳について地理学者は、6世紀初頭の築造としているそうだ。
古事記は裳伏を百舌鳥と注す。百舌鳥は和泉の地名であることから、和泉の地から河内の地に改葬されたとも考えられている。

2021-12-01 6面
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