前回「生きる」と「死ぬ」の間には「生きない」という生き方と、「死なない」という生き方があると話しました。
この構造は、刑事裁判の構造と同じです。日本語の「有罪か無罪か」というのは誤訳だと思っています。有罪と無罪の間には、「有罪ではない」と「無罪ではない」という状況があります。もし「無罪」を争っているのなら、無罪の立証が必要です。死ぬには死ぬだけの理由が要る、というのと同じことです。生きていられない、は、死ぬの理由にはなりません。
「無罪」の英語は「not guilty」です。これは「有罪ではない」という意味です。裁判では「有罪か」「そうではないか」を争っています。「無罪」は争っていません。だから誤訳です。裁判は「有罪ではない」と言えれば勝ちですから、「無罪」の立証は全く出来なくても、「有罪」を疑わせる証拠が一つでもあれば、それで勝つことが出来ます。反証一つで勝ちです。無罪立証の必要はありません。「疑わしきは罰せず」というのは、有罪を覆す反証が一つでもあれば罪に問わない、ということです。「有罪ではない」を「無罪」と訳したのは世紀の大誤訳だと思います。
さて、多くの人は認識した事実をもってそのまま結論の理由にしてしまいます。それは完全に間違った論理構造です。それだのに、いとも簡単に結論を導き出します。
私の父親はよく「東大を一番で出ても朝鮮人には職がない」と言っていました。近くには東大の法学部を出てタクシーの運転手をしている人の親戚も居ました。だからこれは事実でしょう。そして父親はその後に続けてこう言いました。「だから朝鮮人は何をやってもダメなんだ」。幼い頃はその言葉を信じました。しかし朝鮮人差別があるという事実と、朝鮮は駄目という結論には整合性がありません。この論理は間違っています。もし父親が「差別するのは日本人の勝手だが、お前はやるだけのことはしなければならない。差別に負けて何の努力もしなくなるのは、お前の人格の敗北だぞ」とでも言ってくれていれば、私も日本を恨まずにすんだだろうにと思ったことです。これを簡単にいうと、事実認識と価値判断は別次元のことだ、ということです。心理学者のアドラー的にいうなら、差別するのは日本人の問題、差別に負けるかどうかは在日の問題、ということになります。
私のクライアントの社長が、私の横で利益計算を始めました。「えーと売上がこれで」それから暫くして「現金がこれだから」と言います。私は「ちょっと待って」と説明を始めました。
簿記の計算構造には損益の計算からするアプローチと財産(純資産)の差額で求めるアプローチとがあります。利益がいくらかという認識は、どちらかでしなければなりません。混同すると答えは出ません。
今にして思えば私の父親もよくこれをしていたようです。計算が合わないといってうんうん唸るのです。妻(私の母親)に相談しては自分でヒステリーを起こし、最後はお前に何が分かるかと激怒していました。
私は簿記について講演したことがあります。講演が終わってから、友人と記帳代行の会社を作ったという女性がやって来て、「先生、今日初めて、簿記がどういうものか分かりました。ありがとうございます」というのでした。
簿記を仕事にしている人ですら、私の話を聞くまで簿記の本質を知らなかったわけです。考え方を知らない人が多すぎると感じました。私は父親を出来損ないだったと思っていますが、それに気づいてから以降の人生は全て自分の責任だと思っています。親のせいにする気はありません。父親がダメだったという認識を、自分が駄目な理由には出来ません。この点を混同している在日は多いと思います。
李起昇 小説家、公認会計士。著書に、小説『チンダルレ』『鬼神たちの祝祭』『泣く女』、古代史研究書『日本は韓国だったのか』(いずれもフィールドワイ刊)がある。 |