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2021年04月14日 00:00
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海を渡った先人達(85)先人14人目 天武天皇⑥

 日本書紀の681年に、『草壁皇子を立てて皇太子とし、一切の政務を預からせた』と記されていますが、能力重視の天武天皇が皇太子に立てたのは、この時20歳の草壁皇子ではなくて、29歳の高市皇子だったと考えています。
高市皇子は、672年の壬申の戦いにおいて、弱冠20歳ではありましたが、大将軍として軍事をすべて任され、勇敢に戦って勝利という結果を出しました。天武天皇がそんな高市皇子を高く評価して、皇太子に立てたとしても不思議ではないと思います。
また、天武天皇は、高句麗に残してきた3人の息子たちの争いから高句麗が668年に滅亡に至ったことで、679年5月5日に、6人の皇子たちに継承で争わないという盟約(吉野の会盟)を結ばせています。このことは、天皇が自身の亡き後の継承争いを深く憂慮し、日本に打ち建てた高句麗の政権を滅亡させまいと強く願っていたことを示唆しています。だからこそ、自身の存命中に高市皇太子に皇位を譲った可能性は、十分考えられるのではないでしょうか。
最晩年の686年に、天武天皇に関わりを持つと伝えられる寺が創建されています。奈良県の長谷寺と滋賀県の三井寺です。
長谷寺の伝承によると、元は神楽院と称し、天武朝の686年に、僧の道明が初瀬山の西の丘に三重塔を建立したのが始まりとされています。また、寺が所蔵する「銅板法華説相図」の銘文には、「戌年(丙戌?686年)に、飛鳥清御原で天下を治めた天皇の病気平癒のために、僧・道明が造った」とあります。
長谷寺は、その名称から百済に関係する寺のようです。実際、明日香の威徳院と琵琶湖の東にある百済寺を結んだ直線上に位置しているので、百済に関係していることが確認できます。
孝徳天皇と天智天皇の死は、天武天皇が関与していたことが推察されるので、長谷寺、孝徳天皇陵、牽牛子塚古墳(天智天皇陵?)の3地点を結んでみたところ、「30度・35度・115度」の三角形になりました。二つの直角三角形に分割すると「30度・60度・90度」と「35度・55度・90度」になり、強い関連を示しています。このことから、長谷寺には、孝徳天皇と天智天皇が祀られている可能性があるように思います。
三井寺は、元は園城寺と言い、天智天皇の子・大友皇子の子・大友与多王が開基で、686年に父の菩提を弔うために寺の建立を天武天皇に発願し、「園城寺」の勅額を与えられたと伝えられています。
しかし、天智天皇と大友皇子は、天武天皇によって暗殺及び討伐されていることを考慮すると、三井寺は、二人の御霊を弔うために天武天皇自らが勅願した可能性があります。
三井寺から、百済の聖明王以下その子孫が祀られている「大通寺・百済寺・法隆寺」のそれぞれの3地点に直線を引くと、すべて同じ長さになります。つまり、三井寺は、三つの寺のちょうど中心に位置していることになるのです。

2021-04-14 6面
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