日本書紀では、任那に「みまな」と仮名を振っています。「みまな」は漢字で「御真那」であろうと思われますが、「御」には統治するという意味があることから「真に統治している国」と解釈できそうです。
しかし、真に統治していた国(任那)は、稲目王の561年頃に全域が新羅に併合されて統治権を失いました。それ以来、任那が回復されない責任を百済に迫って人質を取り、新羅には任那を奪ったという理由で毎年調(品物)を献上させました。
馬子王の600年以降は、任那の調と合わせて2国分の朝貢を約束させました。このような取り決めは、新羅をたいへん苦しめたに違いありません。実際、金春秋が関与して成立した孝徳政権では、646年9月に新羅から任那の調を奉らせることを取り止めています。
昔王朝滅亡に伴って生じた昔王朝故地の「任那」という特殊な地域の存在は百済・新羅・倭国間で複雑な利害関係を生み、争いが絶えないことで新羅にとって倭国はまさに「目の上のたんこぶ」だったようです。倭王への毎年の任那の調を含む2国分の貢物の調達。百済・倭国連合による度々の新羅への攻撃。これらのことは、金春秋が倭国滅亡を願う充分な根拠になり得ると思います。
642年の晩冬のある日のことでした。641年の末頃に発生した百済国内の大乱により、流刑された王族の翹岐という人物が、大和国の大井(桜井)に住んで、倭王の入鹿から厚遇されていることを聞きつけた鎌足(金春秋)は、翹岐の家に赴き一晩泊めてもらうことにしました。翹岐から倭王の人柄や朝廷内の様子を探ろうとしたものと思われます。
翹岐は、鎌足の容姿に犯しがたい気品があることを見ると、懇切丁重にもてなしました。この時に、阿倍倉梯麻呂の娘に世話をさせたのです。感激した鎌足は『このような恩沢を賜ることは思いもかけぬことである。軽皇子が天下の王とおなりになることを、誰もはばむ者はないだろう』と舎人に語っていますが、翹岐は「軽皇子」という名になっています。軽皇子と翹岐の関連については、次の【孝徳天皇】の項で詳しく考察する予定です。
その後、鎌足は大和国に居住する百済の王族らに接触するうちに、643年頃に開催されたと思われる法興寺での蹴鞠の会で、中大兄皇子(後の天智天皇)に初めて出会い、互いに意気投合しました。そして、倭王討伐の企てを成し遂げる盟主として、中大兄皇子に狙いを定めたのです。以来、二人は寸暇を惜しんで共に過ごし、倭王・入鹿殺害の作戦を練ることになります。
中大兄皇子は、舒明天皇(在位629~641年)の皇子として626年に生まれました。母は皇后・宝皇女(後の皇極・斉明天皇)とされています。41歳の鎌足(金春秋)にとって、18歳の中大兄皇子は息子のような存在でした。若き皇子・中大兄は鎌足の巧みな話術と説得で、倭王・入鹿の殺害に手を下すことに同意してしまいました。 |