崇峻天皇の名「泊瀬部皇子」の意味ですが、「泊瀬」は、これまで考察したように百済の別称であることから、「百済の一門の王子」ということになります。また、天皇の漢風諡号は、桓武天皇の時に成立したと思われることを「神功皇后」のところで述べましたが、「崇峻」の意味は「高貴で背が高く大きい」です。このことから、崇峻天皇は、百済王の太子、あるいは王子であり、背の高い人だったようです。
倭王・馬子は、583年に、肥の葦北(現在の熊本県芦北町)の国造・阿利斯登の子で、百済の官職第2位の達率という高い位に就いていた日羅という人物を、百済から呼び寄せて国政の顧問としました。
日羅の父・阿利斯登は、日本書紀の継体天皇二十三年(529年)三月に初めて出現する、加羅国王の阿利斯等と考えられます。また、新羅本紀の法興王九年(522年)三月の、『伽耶国王が婚姻を請うたので、伊飡(官職第2位)の比助夫の妹を送った』との記述から、日羅の実母は新羅人の可能性もあります。
任那(伽耶諸国)は、532年頃に南加羅(金官国)が新羅に奪われ、561年頃までには、残りのすべての国が新羅に併合されました。
馬子王は、父の稲目王が、新羅に滅ぼされた任那の回復を果たすことができないまま亡くなったことで、父の遺志を受け継いで、任那の復興をすることを決意しました。そこで、賢い人物と伝え聞いた日羅と共に任那の復興の計画を立てたいと思い、百済から呼び寄せることにしたのです。しかし、百済の威徳王(在位554~598年)は、日羅を手放すことを惜しむとともに、倭王を疑ってその申し出を一度は断りましたが、倭王の強い意志に屈してしまい、ついに日羅を手放してしまいます。
倭国にやって来た日羅に、馬子王は、さっそく国政について意見を聞きました。日本書紀の記述によると、日羅は次のように献言しています。
『天下を治める政治は、必ず人民を養うことであり、にわかに兵を興して、民力を損なうようなことをすべきではありません。今、国政を考える人は、朝廷に仕えるすべての者から百姓に至るまで、皆、富み栄え、足りないところのないように努め、このようにすること3年。食料・兵力を満たし、人民が喜んで使われ、水火も辞せず、上下一つになって、国の災いを憂えるようにします。その後、多くの船を造り、港ごとに連ね置き、隣国の使人に見せて、恐れの心を起こさせ、そして、有能な人物を百済に遣わして、その国王をお召しになるとよいでしょう。もし来ないようでしたら、王子らを来させましょう。そうすれば、おのずと倭王の命令に服従する気持ちが生じます。その後で、任那の復興に協力的でない百済の罪を問われるのがよいでしょう』
更に、『百済人は謀略をもって、船三百隻の人間が筑紫に居住したいと願っています。本当に願って来たら、許す真似をされると良いでしょう。百済がそこで国を造ろうと思うなら、きっと、まず、女・子供を船に乗せて来るでしょう。これに対して、壱岐・対馬に多くの伏兵を置き、やって来るのを待って殺すべきです。逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように』と奏上したのです。 |