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最終更新日: 2019-11-20 00:00:00
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2019年09月04日 00:00
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海を渡った先人達<17> 先人4人目 神功皇后⑤

 仲哀天皇の急死にまつわる話は、不可解で謎に満ちています。
古事記には、『ある夜、天皇は戦のことについて神のお告げを受けようと自ら琴を弾き、大臣の武内宿禰が祈った。すると、神は皇后の体に乗り移り、神託を述べた。天皇はその言葉を疑ったが、琴を弾いているうちに息が切れて亡くなった』とあり、日本書紀には、『天皇が神の言葉を疑って採用されなかったので、早く亡くなられた。人民には知らせず、こっそりと遺骸を豊浦宮に移し、仮葬した。この年は斯盧の役があって、天皇の葬儀は行われなかった』とあります。
この状況と新羅本紀の記述から推測すると、仲哀天皇は、344年に斯盧国から婚姻を断られたことに激怒し、345年に絶交書を送りつけた。そして、346年に斯盧国への攻撃を決行した。しかし、これに反発した神功皇后は、母国の斯盧国を守るべく、武内宿禰と共謀して仲哀天皇を密かに殺害した…ということのようです。
すると、斯盧征伐を行ったのは仲哀天皇だったことになります。神功皇后はそれに反対し、斯盧国への攻撃を止めさせたという正反対の行動だったと思われることから、《神功皇后の新羅征伐》は、創作であることが確認できます。
しかし、神功皇后紀には実際にあった出来事も編み込まれているようです。そこで、新羅本紀と日本書紀の記述を年代順に考証しながら、実態を探っていくことにします。
『347年(日本書紀321年)武内宿禰が仲哀天皇の皇子を殺害。10月、皇太后摂政元年』
『349年(日本書紀323年)誉田別皇子立太子。大和国磐余に都を造る』 
347年に神功皇后は天皇に即位し、349年に誉田別皇子が皇太子となり、伽耶系の政権が成立しました。神功女王の政権は、347~359年までの約12年間続いたと推察されますが、352年に、神功女王が母国の斯盧国に使者を遣わしたと思われる記述があります。
『172年夏五月、倭の女王卑弥乎が、使者を遣わして来た』との、「阿達羅王二十年の条」にある記録です。172年以前に、卑弥呼が生まれていたとはとうてい信じられないので、この記述は長年の謎でした。しかし、神功皇后が倭王に即位していたことを知り、謎が解けたのです。
推測するに、1145年に成立した新羅本紀を編集した人は「倭の女王」という記述を見て、倭の女王とは「卑弥呼」に違いないと思い込み、干支で書かれた壬子の年を172年の出来事として「阿達羅王」の記録の所に編み込んで、「卑弥乎」と、勝手に名前を書き込んでしまったのではないでしょうか。本来ならば干支を三巡(180年)繰り下げた352年の「訖解王」の所に記載されるべきでした。
◆訂正◆
7月24日付「神功皇后(3)」5行目の「新羅が780年に滅亡するまで」を、「その後、奈勿王(在位356~402)から孝恭王(在位897~912)まで」と訂正いたします。

2019-09-04 6面
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