1961年5月16日の未明、海兵旅団の先頭である第2中隊が漢江人道橋に進入したとき、トラック2台で橋を封鎖した憲兵部隊によって制止された。中隊長の李俊燮大尉は、陸軍参謀総長も今回の革命を支持しているという話を聞いていたため、憲兵が総長の命令を受けて、自分たちを歓迎に出たと思い、憲兵中隊長の金錫律大尉と握手をした。ところが、金大尉は「私たちは参謀総長の命令でいかなる部隊の通過も許可できない」と言うのではないか。
この報告を聞いた呉定根大隊長は金潤根旅団長の所へ走った。呉中領(中佐)も参謀総長が革命を支持していると聞いていたため、「これはどういう状況ですか」と質した。金潤根旅団長は朴正熙少将から聞いた通り説明し、「海兵隊だけで革命を強行することになったから、憲兵が阻止し続ければ突破せよ」と命令した。呉定根中領は「わかりました。突破します」ときっぱりと復唱し、部隊の先頭へ走って行った。呉中領は当初から海兵隊単独の立ち上げを主張したから、この状況で躊躇する理由がなかった。直ぐ、前方から銃声が聞こえ、静かになり呉中領が無線で報告してきた。
「憲兵たちを払いのけ今、阻止線を突破し人道橋に入ります」
漢江人道橋の南端に設置したトラックのバリケードを突破する銃撃戦で憲兵3人と海兵隊員6人が負傷した。海兵隊部隊の後尾の金潤根旅団長のジープも橋に進入した。金准将はジープから降りた。中之島の方からまた銃声が聞こえた。呉中領が走ってきた。
「中之島に第2の阻止線があり憲兵たちが抵抗しています。この橋に爆破装置を設置された可能性もありますので一旦、兵力を鷺梁津の方へ移動させるのはどうでしょうか」
「爆破装置が簡単に設置されるはずがないから、そのまま進みなさい。ところが、あの阻止線のトラックのヘッドライトが気になるから、処理しなさい」
呉中領は中之島の第2の阻止線のヘッドライトに対する一斉射撃を命令した。光が消えるや第2阻止線も突破された。金潤根准将は漢江人道橋の半分を渡り、龍山の方へ向かった。徐々に動いていた海兵隊の車両縦隊はまた停止した。呉中領がまた報告した。
「大変です。また阻止線があります」
「阻止線があれば突破せよ」
だが、金准将も突破すべき阻止線がどれほど残っているのか気になった。「すでに明るくなりはじめるのに、まだ橋の上で戸惑っている…。失敗したら生きて屈辱を受けるより自決しよう」と考えると、妻と三人の子どもの顔が目に浮かんだ。だが、トラックに乗った将兵たちを見て考え直した。
「私が生きてこと、何も知らず出動した将兵たちには責任がないことを証言できるではないか」
このとき、朴正熙も車から降りて漢江橋を歩いて渡っていた。彼を護衛した将校たちの中で韓雄震准将と李錫濟中領事の証言だ。
朴正熙一行は中之島、つまり、漢江橋の中間を過ぎて北端へ歩いて行った。北端には、第3の阻止線があった。トラック4台を利用した遮断壁だった。トラックの左右から憲兵たちが待ち伏せしして銃を撃った。海兵たちは阻止線の前でひれ伏し応射していた。憲兵兵力がどれほどかを知らないため不安感は大きくなる。
「家族らの顔が水面に浮かんだ」
朴正熙少将は上体を下げず歩き始めた。カービン銃を持った李錫済中領が遂行した。銃弾らが二人を掠める音が聞こえた。(つづく) |