尹仁鉉
前号で書いたように、韓日関係がもつれる原因は、両国の歴史認識の差にあると思っている。特に日本が韓半島を植民地にしたことについて、韓国の責任なのか、日本の責任なのかでもめている。
当時の世界の常識に照らせば、自国の独立を維持できなかったのは、韓半島にあった国の責任である。当時の李王朝を中心として一つにまとまり、国を守り抜く力が足りなかった。
日本も韓半島と同じく危険な国際環境の中に身を置いていた。しかし、明治の大業を成し遂げた。私が思うに、国の中心に天皇があり、国民がその天皇を敬っていたからである。
しかし両国は、不幸な歴史を乗り越え、1965年に国交正常化を果たす。当時の指導者の英知には、感謝してもしきれない。
だがその後、両国の間には領土問題が新たな火種として生まれることになる。条約締結当時、両国の指導者たちは、独島(竹島)の扱いについて「いい時期を見計らって、両国のために共同で開発しよう」というものだった。懸案に白黒つけるのを避け、解決を先送りしたと捉えることもできるだろう。しかし私は、これこそ優れた外交の成果であると考える。
この約束を破ったのは、韓国側である。その証人は、今も生きている。国務総理を長く務め、相当の資産もあるという。
私はクリスチャンである。目を覚ませば神に祈り、限界に至るまで毎日聖書を読む。祈るのは韓国と韓国人のため、日本と日本人のためである。世界に散在する教会のため、天皇家のため、政治家のためにも祈る。もちろん、その生き証人のためにも祈っている。今からでも遅くはない。歴史的な評価を受け、尊敬されたいのなら、当時の事実を国民の前に明らかにすべきである。
私が初めて日本を訪問したのは、国交正常化の3年前、1962年だ。電車の中では、座っている人も立っている人も、本や新聞を読んでいた。書店に置いてある本も、今のように日本のすばらしさを過度に称え、周辺国は沈みつつあるという内容ではなかった。
わざわざ本に記すまでもなく、ゴミのない街や秩序正しい人たちの振る舞いを見ていればわかることだった。百貨店に入れば、店員があまりにもうやうやしく挨拶するものだから、つられて最敬礼してしまうほどだった。
ただ、こうした素晴らしい人が、韓国にいなかったわけではない。韓国動乱のころ、憲兵隊の下士官として大邱にいた。巡察はコースと時間が決まっており、自然とすれ違う人の顔も覚えるようになる。その中に、ある中年の行商人がいた。
大邱という町は、夏は暑く、冬は寒い。重い荷物を背負い、両手にも物を持って歩いていたその中年の男性は、汗まみれになりながらもどこか品があった。互いに顔が合えば会釈する関係になり、やがて一言二言交わすようになり、しまいには親しくなった。
その後、私は転属のため大邱を離れたが、ある日、ある飲食店で偶然再会した。高級店でもない普通の店である。その男性は私の顔を覚えていて、ぜひ事務所に来てほしいと言われた。訪れた事務所は、非常に整理されていた。今や世界に名だたるサムスンである。私が出会ったその人は、創業者の李秉喆氏であった。
サムスンが成功したのは、夜も寝ずに努力した結果であり、決して政権と癒着したからではない。むしろ、今の韓国があるのは、財閥の努力によるものである。
(つづく)