スターリンの手紙は、スターリン個人の把握はもちろん、東西冷戦と当時の国際政治の実像を知る上で重要な内容を含んでいる。その内容を紹介する。
「米国政府は、安保理の多数決を利用してフリーハンドを得て愚かなことを思うがままに恣行することで、世論に米国政府の真剣さを知らしめた。私は、われわれがこの目的を達成しつつあると信じる。(中略)われわれが安保理に参加しなかった以降、米国は韓国に対する軍事的介入にはまって軍事的名声と道徳的権威を損ねている。米国が韓国で侵略者や暴君の役割をしている事実と、米国が一時思われたほど軍事的に強力でないという事実を疑う人はいないだろう。しかも、米国が極東に縛られて、今、ヨーロッパに神経を使う余裕がないことも明白だ。このような事実は、世界の勢力均衡において、われわれに得ではないか。(中略)米国政府が極東に縛られ続け、韓国の自由と独立のための闘争に中国を引き入れると仮定してみよう。このことからどういうことが起きるだろうか。(中略)まず米国は、どの国も同じだが、膨大な兵力を保有している中国と戦って勝てない。米国はこの闘争で(戦線が)過度に拡大するだろう。第二に、そうすることで、米国は近い将来に第3次世界大戦を起こせないはずだ。第3次世界大戦は、どれほどかはわからないが延期されるはずで、ヨーロッパにおいて社会主義を強化する時間を稼げるはずだ。さらに、米国と中国の戦いが極東の全地域を革命化することは言うまでもない。(後略)」
トルーマンはスターリンが期待したとおり、韓国戦争に全面介入を迅速に決定し、執行した。韓国としては、米国の政策決定史上二度と見られない奇跡だった。
スターリンの計略にはまった金日成は、南労党員たちに暴動を指示・奨励したが、暴動など一件も起こらなかった。
8月28日、スターリンは「ピンシ」という暗号名で全連邦共産党から解放戦争の輝く成功を祝うメッセージを金日成に送った。スターリンは、「戦争では紆余曲折は当然付きもの」という注意を含めることを忘れなかった。毛沢東も金日成に国連軍の上陸作戦について警告したというが、その紆余曲折が9月15日、現実となった。
仁川上陸作戦の成功の確率は、5000対1と評価されていた。しかし、国連軍は9月15日、この困難を克服して仁川に上陸し、ソウルを目指して進撃を始めた。
劣悪な補給にもかかわらず、洛東江で総力を尽くして攻勢を展開していた人民軍は、瞬く間に補給線を断たれ、巨大な包囲網の中に閉じ込められだ。指揮官は部隊を掌握できず、部隊は瓦解し、兵士たちは軍服を脱ぎ捨て私服に着替えて逃走した。軍官(将校)たちも逃走の隊列に加わった。当時、戦況を評価するため戦線に赴いたソ連軍のマートベエフ将軍はスターリンに次のように報告した。
「人民軍は、米空軍の爆撃で莫大な損失を被り、戦車のほとんどと火砲を失った。今、人民軍は厳しい持久戦下に置かれている。部隊は弾薬や燃料が不足し補給も遮断された。何がどれほど不足しているかも算出できない」
隊列を離脱した人民軍は武器と軍服を捨てて逃げた。隊列を維持した敗残兵たちは民家の家畜を殺し食料を強奪して、南韓住民たちから敵意を買うことになった。
国連軍は11万人を超える人民軍を捕虜にした。9月28日、国連軍のソウル奪還で、平壌の金日成はパニックに陥った。(つづく) |