解放後に父から初めて朝鮮(韓国)の歴史を聞かされた。自国の歴史を誇るように話す父が「王位に就くために父と兄弟どうしが喧嘩をし、殺し合ったりした」と怒るように語っていたことを時折想い出す。中学生のわたしには意味がわからなかった。父は19世紀末の生れの書堂(ソダン・寺小屋)で千字文を習った世代であり、儒教を重んじる教育(一族一門・家族・親族を大事にする教育)であり、それを父の世代では民族の誇りにしていた。
壬申丁酉倭乱(文禄慶長の役)のとき義勇兵の将軍として豊臣秀吉軍と戦い、その名を馳せた郭再祐は母の喪に服するために引き籠もり、戦場に出でよという王命に親を大事に出来ぬ人間が国を守れるかと言って聞き入れなかった。将軍の故郷である慶尚南道宜寧郡は父の故郷(本籍地)でもあり、郭将軍のその考えを誇りにしていた。そうした社会環境にあった父の世代では王位を巡る家族間の葛藤に大変不快感を示していた。高句麗と百済は兄弟国なのに戦ったことに父は批判的であった。
話を歴史に戻そう。394年8月、百済が高句麗との国境線地帯に侵攻したが失敗し、侵攻を防いだ高句麗は平壌に9つの寺院を建て、その翌年7月またも百済が侵攻してきたので広開土王は自ら5千の精鋭騎馬隊を率いて迎撃し追い払い、その翌月百済との国境線近くに7城を築いて侵攻に備えた(『三国史記』)。
401年正月、王は国の北に位置する(後)燕に使臣を遣わして朝貢したが、燕の慕容盛王はその朝貢・聘礼に不満で自ら三万の兵を率いて高句麗を襲った。そのとき高句麗の二つの城を落とし700余里の土地を開拓して5千余戸をそこに移した。それが高句麗民なのか燕民なのか定かでない。403年から407年まで燕は断続的に高句麗を攻めるが攻略出来なかった。蝗(いなご)が大発生し日照りが続き、燕王は攻略先を契丹に代えたがそれも成功せず、兵の疲労が重なり凍死する兵が出るほどであったので高句麗攻めを諦めて帰った。
409年王は燕に使臣を遣わして宗族(そうぞく・共通の先祖を持つ父系の一族一門)の礼を尽くし、燕王の(高)雲も高句麗に答礼の使臣を使わして、祖先を共有する関係が成立する。燕王の姓も「高」であり、高雲王の祖父である高和は高句麗の強い支持派であった。
410年王子の巨連を太子に定め、6つの城を築き国内巡業を済ませた。その2年後の413年39歳の若さで亡くなり、広開土王の号が授けられた。その子孫が王の業績を記したのが広開土王の石碑であり、その内容は次号で触れる。
(キム・ヤンギ 比較文化学者)
訂正 前回の「三国時代(高句麗・百済・新羅)の実在した王8」は「広開土王1」に訂正します。 |