1949年9月、連合国軍最高司令部(GHQ)は、朝鮮人連盟(朝連)に対して解散命令を下した。この時から在日同胞社会の左右対立は一層露骨になった。民団と朝連との間で互いに、火炎瓶や石、黄金爆弾(人糞を入れた瓶)を投げることが常時に起こった。
組織が解体された朝連側は反米―反日路線を明確にした。一言で韓国と米国、日本を敵とみなしたのだ。朝連系の人々は1950年6月、朝連組織の後身で、「在日朝鮮民主民族戦線準備会」を結成した。これを6・25動乱直後には、「祖国統一戦取実行委員会」に名前を変えた。1951年9月には、「在日朝鮮民主戦線」(民戦)を結成した。朝連系はこれとは別に、「在日朝鮮人祖国防衛委員会(朝防委)と、その傘下に、「在日朝鮮人祖国防衛隊」(朝防隊)まで組織した。これら一連の組織は彼らが1955年5月に結成した、朝鮮総連、北朝鮮労働党の在日本党であり、親北勢力の元祖といえる。
この時期、左派共産系が日本社会と韓国、米国を敵とみなしているという根拠が溢れでる。朝防委は公然と自分たちの任務を、「米帝(=米国)とその手先吉田(=当時の吉田茂内閣)、在日李承晩売国の徒党(=民団)と戦争をして北朝鮮を防衛すること」と明言。朝防隊は3~5人を一組とする行動隊を多数設けて、手製爆弾、火炎瓶、拳銃で米軍基地、軍需工場などの施設に対する破壊工作を目標とした。彼らが起こした武力事件には、1952年6月の吹田事件と1953年1月の皇居前事件などがあった。当時、日本の政治勢力のなかで朝連を庇護し共同歩調をとった政党こそが日本共産党である。
民戦と朝防委の極左冒険主義は、内向けには在日同胞社会の対立と分裂を深め、外向けには日本当局と日本人から在日同胞弾圧と差別の口実を提供した。朝連朝総連系が日本で生きながらも、日本を打倒の対象としたのは非常に矛盾した状況だが、罪悪感はみられなかった。同様に日本、そして日本人がその頃から最近まで、自分たちを攻撃する親北左派の連中をかばい、かえって反韓世論の勢力を拡大させていることは、歴史の皮肉ではないだろうか。
一方1953年7月27日、3年1カ月ものあいだ血を流した戦争の銃声が止まった。この日6・25動乱休戦協定が締結されたのだ。米国、英国、フランス、ソ連の4カ国は1954年4月から6月までスイスのジュネーブで、「韓国問題に関する高位政治会談」を開き、次の4項目について議論を行った。
(1)韓国と北韓の総選挙を通じた平和統一、(2)選挙は人口比例制に基づいて自由・秘密・普通選挙とする、(3)選挙終了後、統一国会をソウルに招集する、(4)選挙は南北合意後6カ月以内に施行する。
1954年4月にはインドの首相ネルーと、中国共産党の総理周恩来の会談で、「平和5原則」声明が提唱され、同年7月には、内乱状態であったインドネシアの休戦協定が成立した。
世界情勢の流れが6・25休戦協定を契機に一瞬、戦争から平和に急変していった。在日同胞社会もこのような世界情勢の変化を察知して、南北間に交渉の余地が生じる可能性があるのではないか、と思う希望論が芽生えはじめた。
この時、元心昌氏は左右合作の希望を捨てなかった。1951年4月、民団の第11代中央団長に選出され、第12代団長までの在任中は6・25動乱の真っただなかであった。元氏は団長在任期、民団傘下に戦災援護事業委員会を発足させ、委員長として活動した。また、「同和信用協同組合」を創設した。
この時彼は組合に、民団系だけではなく左派も参加させた。左右対立が深刻で一方を選択しなければ裏切り者扱いを受けていた当時、彼はなぜ反対陣営の左派を受け入れていたのだろうか?
「南北に国土と民族が分裂した後、どれ一つ惨めでないものがない」(1971年6月20日。病床日記)
日帝時代に独立運動をした元氏としては、分断された祖国、同胞の分裂を決して容認できなかったのだ。 (つづく) |