小寿林王は高句麗に仏教を導入し寺を作り、僧を大陸から招いた。秦の王は僧の順道に仏像や経文を持たせて高句麗に遣わした。374年に伊弗蘭寺(イブランサ)を開いて阿道(出身地は魏・晋・前奏の何れかは定かでない)が赴任。
これらが外来宗教である仏教と僧を迎えた海東(3国時代の韓国)での初めてのことであった。後に百済・新羅そして日本の奈良に伝わる契機となった。王は宝物を贈り秦王に謝意を伝えた(『3国史記』より)。仏教とほぼ同じ時期に儒教も伝来し、儒仏教典や経典の表記は漢文が主であり、必然的に漢文が遣われることが多くなり、政もそうした新しい文化の伝来普及に伴って変化変容しながら整備されるようになった。
王の末年には干ばつや疫病が流行り食糧難に見舞われ、国の北部に契丹が襲来し八つの村落を失うなど辛苦が重なったが覇気は衰えなかった。そうした環境で覇気が衰えて行けば国勢は衰えて行くのは自然の成り行きでもある。
そうした環境のなかで384年小獣林王が亡くなり、王には実子がいなかったので実弟である伊連が王位を継ぎ第18代故国壌王(在位384~391)が誕生する。故国壌王は即位の翌年4万の兵を率いて遼東と玄菟を進撃し、1万人の男女を捕らえて戻ったがその翌年遼東と玄菟は取り戻された。その翌年故国壌王は百済を襲撃する。
その秋、桃や李の花が咲き牛が足が8本、二つの尾の馬を生んだと『三国史記』に記されている。それは瑞兆であるが在位中瑞兆は起こらず、干ばつが続き人々が食料の取り合いを演じるほど食糧不足に見舞われ、王は国の穀倉を開けて民を救済した。瑞兆は19代の広開土王の御代に現れ、国勢が高まる。
百済は高句麗を襲うなど戦乱が続くなかで王は末年に新羅に修交の使臣を遣わし、新羅の奈勿王は姪を人質に差し出してそれに応じた。高句麗と新羅が修交を結び、それを履行するために王の近親者を人質に差し出す習わしがその時代にあった。392年王は「仏教を崇め信じて福を求めよ」と命じ、社禝を建て宗廟を補修してこの世を去った。
故国壌王の後を太子が王位を継ぎ高句麗中興の祖と言われる第19代広開土王(在位391~412)が誕生する。王の諱は談徳、生まれながらにして体格が勝れ、強い志を持っていたと『三国史記』に記されている。即位の翌年、王は南に位置している百済の城を10城攻め落とし、北の契丹を攻め500人を捕らえ、以前契丹に捕らわれた国人を1万人連れて帰った。契丹の城は険しい山と海水に囲われた難攻不落の要塞であったが、二十日ほどで攻め落とした。この勢いは止まらず、高句麗の存在はさらに大きくなってゆく。
(キム・ヤンギ 比較文学学者) |