早くに芽生えた民族意識
元心昌氏の生涯は、20世紀の韓民族が経験した苦難の歴史と歩みを共にする。
元氏の生涯は、植民地時代の独立運動、祖国の分断による南北統一運動に点綴されている。このような事実は、生前の元氏の行跡、同僚の証言、記録などから如実に確認される。さらに「上海六三亭義挙」の当時、日本当局の法廷審理過程で出された裁判記録でも立証されている。
元氏の生涯を大きく初年期、中年期、晩年期の3つの時期に分けて整理してみれば、初年期は「反日帝」と救国の意識が芽生えた時期である。17歳の時日本に留学する前までの期間である。
元氏は1906年12月1日、京畿道平澤郡安定里で元興本氏の3男1女の末っ子として生まれた。原州元氏の族譜の系譜上の本名は「裕昌」だ。独立運動に参加して「心昌」という名前で対外的改名を選んだようだ。植民地時代には、日本当局の弾圧を避けるために「勲」という名前を使うこともあった。
元興本氏の4人の子どもたちは、幼い頃から地元の彭城面では、聡明でやさしい性格として名声を馳せていたと伝えられる。兄弟の中で心昌は、とりわけ義侠心が強かったというのが、村の住民や親戚の一様な評価である。元氏が初めて対外活動に参加した事件は、13歳になった年である1919年3・1独立万歳運動(=己未独立運動)だ。3・1運動は、韓半島全国で200万人が参加した民族最大の抗日救国闘争である。
平澤は3・1運動の時、どの地域よりも激しいデモが行われた場所である。現在の平澤市史料によれば、平澤管内で万歳運動に参加した農民の数は6000人、この中で警察によって殺害された人数は64人、負傷者が174人に達した。運動が起きた後に日本警察に連行されて拷問にあった人数も257人であった。
平澤の3・1運動は、その期間も長かった。3月初めに始まった運動は、平沢管内11カ所の邑面全域に拡大し、決起は4月11日まで1カ月以上、計15回にわたって起きた。幼く力が弱い少年であった元氏だが、万歳運動の堂々たる参加者の一員であった。元氏は1969年3月1日付「統一朝鮮新聞」(統一日報の前身)で本人の3・1運動体験談をこのように明らかにした。
「3月1日夜であった。夕飯を食べて部屋にいたが、まるで海が割れ、地震が起きたような音が聞こえた。驚いて外に出て見たら山頂ごとに火が燃えていた。人々が一つになって『朝鮮独立万歳』、『自由独立万歳』を叫んでいた。(中略)私は山頂に登って目撃した光景を一生忘れることができない。燃え上がる頂上は、まさに壮大な火炎の海だった。実に朝鮮の全土、朝鮮の山と呼ばれる山はすべて燃え上がっているようであった。今まで私の人生でその光景が、どんなに私に勇気を与えて励ましてくれたか」
少年に3・1独立運動は、独立運動家の人生行路を決心させるきっかけになった。翌年の1920年初め一人でソウルに留学して私立中東学校(現中東高等学校)に入学した。留学の動機を彼は日記に残した。
「少年時代3・1独立運動で猛烈な民族抗争の光景を経験して独立の精神が芽生えた。しかし、不幸にも文盲の少年であった」(1971年6月19日病床日記)
1906年建学した中東学校は、愛国啓蒙活動家が近代的制度教育の必要性に目覚めて設立した私学として、独立運動闘士を多数輩出した。
(つづく) |