6・25戦争で奇襲南侵の先鋒に立ったのは、毛沢東が金日成に送った中共軍の中で最強だった朝鮮人部隊3個師団だった。国共内戦で活躍した中共軍164師団と166師団は武器・装備を持ったまま南侵1年前の1949年7月に北韓に入って人民軍5師団と6師団になった。
中共軍156師団も編成を維持したまま1950年4月に元山に到着して人民軍7師団になった。この歴戦の経験のある部隊が「人民軍」の主力だったのだ。
対する在日学徒義勇軍は名の通りの「義勇軍」で、当初は米軍を補助する性格だった。第1陣(78人)は、血書志願組の鄭炯和や趙英振、朴炳憲など関東近県の学生たちが中心だった。
第2陣(266人)は、「建青」などで活動した李麟基や文性煥、李奉男などと大阪や愛知など関西・中部地域の青年たちだった。9月11日に東京に集結し9月15日、朝霞キャンプに入隊した。
名古屋から第2陣に参加した軍人会理事の文貞碩さんは「キャンプに入隊してから着ている服を家に送った。これで死にに行くんだと思った」と振り返る。やはりキャンプで簡単な基礎訓練だけで9月19日に横須賀港を出港し、9月26日に仁川港に上陸した。
第3陣(101人)は、 金鎮睦や朴大闢、金泰善など関東、東北、関西の青年たちだった。9月27日に朝霞キャンプに入隊した。簡単な基礎訓練だけで同月30日夜に横浜港を出港して10月5日仁川に到着した。
第4陣には、金永銀、明徳一、朴徳喆など九州地方の145人だった。第4陣は大分県別府市近郊のキャンプモーリにある米8068補充部隊に入隊した。やはり簡単な基礎訓練のみで10月15日に佐世保港を出港し、釜山に入港した。第4陣は、韓国軍第2訓練所に入営し、50日間の訓練の後、前線に配置された。
在日学徒義勇軍の最後である第5陣は、朴斗元、李圭達、鄭海堂など第4陣と同じく九州地方出身で、9月18日にキャンプモーリに入所した。第5陣は初めて、45日間の基本軍事訓練が行われ、軍番も与えられた。第5陣は11月10日に小倉港を出港して元山上陸作戦に参戦した。
第5陣には、太平洋戦争中に日本軍の少年航空兵として戦闘機の操縦経験があった朴斗元が韓国空軍、李圭達など3人が韓国陸軍航空隊に編入された。
キャンプモーリでの軍事訓練
キャンプモーリは、在日義勇軍の第4陣と第5陣が入営する少し前に開設され、第5陣が小倉港から元山に向かった11月10日後に閉鎖されたキャンプだった。同キャンプは、米第3師団が急遽米本土から日本の別府基地に配属になり、元山上陸作戦実施日まで訓練をする仮設テントのキャンプでもあった。
当時の新聞報道などによると、同キャンプでは、平常時は6時起床(ただ実弾演習の日は毎朝5時半起床)、直ちに朝食、7時から8時体操、8時から9時教練、9時から12時救急法、兵器の手入れ、午後12時から昼食、1時間の休憩を置いて4時まで演習および学科が続いた。5時夕食、6時から8時半まで映画やラジオなどの娯楽、9時消灯。これが毎日の訓練日課だった。
第5陣で参戦した久留米出身の姜大允さんは「共産党が我が国を踏みにじることは許されない。国を救うために、死ぬか生きるかも考えず参戦した」と話す。当時個人病院で働いていたこともあり、キャンプモーリでは、医療業務に従事する衛生兵として訓練を受けたという。「早く起きて、動作も早くしないといけない。タンカを抱えて山に登ったりと、忙しい訓練できつかった」と回顧した。 |