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在日の従北との闘争史
2014年07月09日 00:00
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在日の従北との闘争史~民団結成から韓国戦争勃発まで~呉基文氏を偲んで⑨~
「朝連」の「女盟」に対抗して「婦人会」を結成
婦人会中央本部結成大会
「婦人会」と呉基文顧問
婦人会中央本部初代会長を務め、民団中央本部顧問である呉基文氏が亡くなった。
呉顧問は、49日法要が終わった後、79年前に死別した夫・裵康伊氏が眠っている韓国・天安にある「望郷の丘」に埋葬される予定だ。
民団中央の辛容祥常任顧問は「呉顧問は漢文に造詣が深く、よく漢文を引用しながら発言した。会議などでは、韓国ではなく、『大韓民国』と呼ぶべきだとよく言っていた。韓国に対して純粋に愛情がある人だった」と故人を偲んだ。
呉顧問は1946年2月、民団の前身でもある「新朝鮮建設同盟」で初代婦女部長を務め、「建同」東京西本部の財政部長にもなった。「建同」を財政的に支えた。同年10月に「民団」中央本部が結成されると、初代婦女部長に就任する。
呉顧問は「朝連」の信託統治賛成集会で一人で反対を訴えたことで有名だが、日本の植民地時代の独立烈士(尹奉吉、白貞基、李奉昌)の遺骨本国送還にも尽力した。
呉顧問は、植民地時代に女性として苦難を経験し、そういう苦難を乗り越えて、民族運動に参加した。
呉顧問は、植民地と解放・建国、そして6・25戦争の中で、在日同胞がどう生きてきたのかを回顧録で残した。呉顧問は女性の参与や協力なしには、民団の成功も期待できないと思って、在日同胞女性たちをまとめる団体として「婦人会」を結成した。
「朝連」は、1947年10月には、「朝連」婦女部を経て「在日本朝鮮民主女性同盟」(女性同盟)を結成。同年12月には機関紙「女盟時報」まで創刊発行していた。
「婦人会」は6・25戦争中に最前線まで慰問
1947年8月に婦人会東京本部が結成される。初代会長には呉顧問。細々とした出帆だった。
そして、1949年6月に民団中央本部講堂に日本全国の10都道府県から婦人代表が集まって、「在日本大韓民国婦人会中央本部」を結成した。ここでも呉顧問が初代会長になった。「家庭」「文化」「経済」の活動目標と3大綱領を打ち出した。決して大きな組織ではなかったが、間もなく勃発した6・25動乱の中で「婦人会」は活躍した。
戦争勃発直後、救援物資を集めて、釜山港に送った。戦争が高地戦になった1952年の年末には、呉会長など婦人会代表3人が最前線まで慰問品を持って行って、将兵を激励した。休戦協定後も救援活動を続けた。
「婦人会」は子供たち、特に女児たちの教育に力を注いだ。その他にも、同胞戦犯釈放運動推進、婦人職業紹介所と結婚相談所を設置した。1959年「北送事業」が始まるや、「婦人会」は「民団」とともに反対運動に献身した。1960年代に入ると、「婦人会」は韓日国交正常化に向け、日本の全日本婦人連盟と合同主催で韓日会談促進懇談会を開催し、韓日親善を強化した。
呉顧問は1967年4月までの18年間、会長として精力的に活動した。植民地下の独立運動のような献身によって、「婦人会」は「女盟」を完全に圧倒するようになる。
2014-07-09 4面