●宮城Ⅰ
店舗営業を再開 ~ 曺孝男さん(多賀城市)
| 津波で泥まみれになった店を掃除する曺さん | 4月上旬、約1・5メートルの高さまで津波が押し寄せた曺孝男さんの店は、ヘドロと軽油の臭いで満ちていた。備品の多くは海水でやられた。
それから約4カ月。途中約3カ月間は、慣れないアルバイトをしながら家族を養った。金融機関から資金を融資してもらい、店は5日に再開した。新しいエアコン、冷蔵庫、テレビなどが入った店内は新しい木の匂いに包まれている。 | 5日、約5カ月ぶりに営業を再開。すると、特に宣伝もしていないのにお客さんで店はいっぱいに。「一人でやっているもんだから早く帰りたくなっちゃった」とうれしい悲鳴も聞こえる。「みんなが助けてくれるから何とかがんばらないと」と前を向いていた |
「やっと先が見えてきた」と笑みがこぼれる。店があるのは仙台市中心部から車で約30分の多賀城市内にある。仙台市内からは、「復興景気」の声が聞こえてくる。ホテルの部屋は全国から集まった建設作業員で埋まり、歓楽街の国分町には活気が戻ってきたという。それが多賀城まで広がるという淡い期待は抱いていないが、近所の飲食店の多くが店を閉めた中での営業再開の意味は小さくないだろう。
震災による被害は数百万円だったというが、「いい面もいっぱいあった」と前向きに捉えている。震災直後、兄弟や親戚、友人が見舞金を届けてくれ、それで中古車を買うことができた。早期に車を手に入れられたことで、生活の再建はその分早くなった。
震災前まではあいさつしても上の空だった近所の人とは親しくなり、今は団結力の強さを感じている。偶然再会した知人と「生きていたか!」と固い握手を交わしたこともある。
心配なのは営業再開後に客足が戻るかだ。放射性セシウムで汚染された牛肉が全国各地で見つかったため、安全な材料の調達とそのアピールに気を使わなければならなくなった。
しかし幸運なことに、曺さんは再開後の店のメニューに韓国家庭料理を増やしていた。焼き肉中心だった以前よりも韓国料理の比重を増やせたのは、仙台市内で韓国料理店を営む女性からたまたまアドバイスをもらったからだった。
その女性は注文を受けてからすぐに料理を出せるコツを教えるだけでなく、実際に作ってみせることも提案してくれたが、曺さんは申し訳ないからと断った。このように「人間の温かみを感じられたこと」が、営業再開に向けて大きな力になったのはいうまでもない。
●宮城Ⅱ
人間関係に悩みと救い ~ 趙美英さん(東松島市)/朴今子さん(石巻市)
| 4月上旬、自宅があった場所で立ちつくす趙さん | 「記者さん、私が今一番食べたいものは何かわかる?」
4月上旬に会った東松島市の趙美英さんは、取材が終わりかけたときに突然尋ねてきた。こちらが返答に困っていると「ラーメンです。温かいラーメン。それだけでいい」と教えてくれた。自宅が津波で流され、先の見えない避難所生活を送っていた当時と比べ、仮設住宅に入ることができた6月半ばからは少し心の余裕が出てきたと話す。仮設住宅に移ってから温かいラーメンも食べることができた。味がどうだったかは、感動のあまりよく覚えていない。
海苔の養殖業を営んでいた夫は、組合が斡旋する清掃作業で収入を得ているが、近いうちにワカメの養殖を始めようとしている。初期投資が海苔に比べて安い上に、7割まで支援金が出るからだ。 | 礼拝後、仮設住宅に入居した趙さん(左)の相談に乗る朴さん |
「それでも足りないのはまとまったお金」と趙さんは言う。仮設住宅は最低でも2年間無償で住むことができる半面、食事などは自分たちでまかなわなければならない。夫の事業にしても、個人で用意しなければならない資金は大きい。ローンを組むには年齢的にも職業的にも制限がある。趙さんは国に対し「小出しに支援するのではなく、まとまった額の支援をしてほしい。住民が再出発できれば復興は後からついてくる」と強調する。
体重は避難所にいたときに8キロ、仮設住宅に入って6キロ減った。人間関係のもつれから受ける極度のストレスのためというが、人間関係に救われることもある。
趙さんとは10年以上の付き合いになる朴今子さんは7月31日、趙さんと地元の教会の礼拝に参加していた。今までは別々の教会に通っていたが、この日初めて朴さんが通っていた教会に趙さんを誘った。
石巻市の自宅は、津波で床上まで浸水した。畳を捨て、床の張り替えをしようと業者の見積もりを取ったところ、100万円ほどかかるといわれた。補助金を頼りにできなかったため、夫と2人で床や柱を修理した。40万円ほどかかったという。
夫は警備員のアルバイトをしているが、朴さんは長く仕事を失ったままだ。生活再建にはまとまったお金が必要と訴える。地元の中学校には、動くに動けない避難民がまだ1000人近くいるという。 |