趙甲済 今日(12月23日)は、60年前、米8軍司令官のウォーカー(Walton Harris Walker)中将が今のソウル市道峰区で交通事故に遭って死亡した日だ。彼はジープで息子が勤めていた部隊に行く途中反対側からやってきた韓国軍のトラックに打つかって死んだ。当時61才だった。彼は大韓民国の命が危うい時不屈の執念と勇気で洛東江橋頭堡を護った指揮官だ。彼が「死ぬまで戦う」としながら洛東江防御線を維持する間、マッカーサー司令官は仁川上陸作戦を準備できた。 ウォーカー中将(*写真の中の左)が、韓国軍運転手が運転したトラックの過速走行で死亡したことは、韓国人としては申し訳ないことこの上ないことだった。李承晩大統領は運転兵を厳罰しろと命令したが、そばにいた米軍顧問官が止めたという。運転兵は懲役3年の刑期を終えて出所した。 日本に駐留していた米8軍の中で最初に韓国戦線に投入された部隊は第24師団だった。連隊長のマーティン大領は天安で自らバズーカ砲を持って北傀軍の戦車と対決して戦車が撃った直射砲で散華した。24師団長のディーン少将(*写真の中の右)は、大田を防御する戦闘を指揮した末、部隊が分散されて落伍し韓国人の民家に隠れた。誰も彼を長く保護しなかった。最後には二人の韓国人が彼を北傀軍に渡し5ドルずつ貰った。 9軍団長のムーア少将は、1951年初め反撃作戦中搭乗したヘリコプターが高圧線にかかって墜落して負傷の後遺症で死んだ。 8軍司令官のバンプリト将軍の息子は操縦士だったが、北韓地域を爆撃中失踪して戦死と処理された。米国CIA部長の息子はプリンストン大学在学中に海兵隊に志願して、韓国戦線で頭に銃傷を受けて身体障害者になった。 ハーバード大学卒業生の中で17人が韓国戦線で戦死した。停戦協定を締結した国連軍司令官だったクラーク将軍の息子は、2師団所属の中隊長として「断腸の稜線」戦闘で重傷を負って、本国へ後送されたがこれが3度目の負傷だった。 韓国戦に参戦した米軍将軍たちの息子たちは142人に上る。アイゼンハワー大統領の息子も参戦した。この人々の中で戦死や負傷した人が25%の35人だ。一般兵士たちの戦死傷率より二倍も高い。彼ららが危険な戦線勤務を志願した場合が多かったためだ。 李承晩大統領に事故を起した運転兵への善処をお願いした米軍大尉のジム・ハウスマンは、回顧録の中でこういう手痛い指摘を残した。 <ハーバード大学の古風な校内の礼拝堂の壁には、韓国戦に命を捧げたハーバード出身兵士たちの名前が銅版に刻まれてある。米国は一つの都市から一人が出るかどうかの「米国の希望」たちを韓国で自由を護るために送りだした。教授たちも参戦して何人かが戦死した。韓国でも多くの学徒兵らが戦死した。韓国では、尊敬する小隊長、勇敢な大隊長、そして生命を捨てて陣地を護り抜いた兵士たちの話は口で伝えられるだけ、彼らを賛えられる痕跡はどこにも無い。韓国は戦後、腕を失った国会議員、目を失った国防長官を持てなかった。行事場や宴会場のようなところで韓国戦の戦傷者たちに会ったこともない。> 多くの韓国人は、5万4000人の米軍戦死者、10万人の米軍負傷者が流した血の上で今も安保無賃乗車を楽しみながらウェルビーイングに注力する。「6.25戦争」60周年の年に迎えたウォーカー将軍の60周期を、この国は記憶もせずそのまま過ごすだろう。80代の金利鎮氏が、自分のお金でウォーカー将軍追悼行事を行い続けてきたのがせめて最小限の体面を保った。ウォーカー大将追慕記念事業会の金利鎮会長は、「左派政権10年間は警察署で許可を出さなかったため、事故現場での追慕祭を行うこともできなかった」と言った。去る12月初め、ソウル市庁広場で行われた追慕会は、金氏の努力で開催されたものなのに、追悼辞を約束した某長官は現れなかった。ウォーカー将軍の犠牲的闘争がなかったら、今金正日の治下で生きているはずの韓国人たちと政府の驚くべき忘恩だ。 恩恵を忘れる韓国人、自分を護るための戦いも恥ずかしく思う韓国人。彼らを見ればすでに滅びるべきだった国だ。天安艦爆沈が北側の仕業という事実を否定する国民が30%もある国は滅びるのが正常だ。そういう国がまだ滅びていないのも米軍のおかげだ。「太った豚」のように生きる国民という非難を言われないためには、心の銃を取らねばならない。 |