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2010年02月01日 13:18
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序曲(54) 金鶴泳

 その木のことをタモの木だとばかり思っていたら、ある日、湯島の下宿のあるじが、
「あれは榛(はん)の木ですよ」
 といった。
 あるじは、趣味として盆栽に凝っていて、植物について詳しかった。
 電車の中で隣り合せたおばさんは、タモの木と教えてくれましたが、と祥一がいうと、
「いいえ、あれは榛の木というんです」
 盆栽の松に鋏を入れていたあるじは、確信ありげにいったのだが、どちらが正確なのか、いまだに祥一にはわからない。カジカのことを金沢ではゴリというと洋子からきいて、タモの木という名前も、榛の木の方言なのかも知れないと祥一はふと思った。
 あのとき、直江津の安宿で三晩泊った。そのときも、ずっと、雨催(あまもよ)いの雲が空に立ちこめ、雨が降ったり止んだりしていた。
 北陸の海を見たのは、そのときがはじめてだった。じつに暗く、そして波の荒い海だった。暗い雲の向こうの、水平線のあたりだけが黄色く輝き、帯となって左右にひろがっていた。まだ昼すぎの時刻だったから夕焼けではない。その黄色い光の帯が、どういうわけか、いまも鮮やかに彼の心に焼きついている。暗い海、暗い空、その境目に、微かな希望のように細く輝いている黄色い光の帯-波の花を浴びながら、彼はいつまでもその光の帯を見つめたものだった。


 直江津で三晩滞在していたあいだに、亀井勝一郎の『愛の無常について』と、キルケゴールの『死に至る病』を読んだのを憶(おぼ)えている。
 亀井勝一郎は、人間の生まれ変わりの徴候として、「考えるということ。迷うということ。かくあれかしという一念の発生。邂逅(かいこう)ということ。自分の言葉を持つということ。死ということ」などを挙げていた。
「性急と絶望は、青春の特徴ですが、同時にこれが精神の生成を示す注目すべき徴候なのであります」
 とも書いていた。
 性急と絶望は祥一にも理解できた。しかし、それが精神の生成を示す注目すべき徴候だといわれると、彼にはわからなかった。当時、すでに、彼の裡を占めていたのは、何ものにとも知れぬ性急な感情であり、またどこからくるとも知れぬ絶望めいた感情だった。それは、彼には、ただ苦しいだけのものだった。それだけに、キルケゴールの『死に至る病』は、別の意味で彼の心にしみた。
「絶望者は何ごとかについて絶望する」
「彼が何ごとかに絶望したというのは、ほんとうは自己自身について絶望したのであり、そこで彼は自己自身からのがれようと欲する」
「なんらかの意味で絶望していない人間はひとりもいないと言わざるをえないであろう。その内面において、なんらかの動揺、不和、不調和、不安を感じていない人はひとりもいない。知られざるあるものに対する不安、とうていそれを知る気になれないようなあるものに対する不安、生存のなんらかの可能性に対する不安、あるいは自己自身に対する不安、そういう不安を持たない人はひとりもいない」
 あの当時、小説にはまだ興味が向いていなかったけれども、そんな本を読んでいた。亀井勝一郎の言葉にも、キルケゴールの言葉にも、ひとつひとつに祥一は考えさせられた。
 彼の中にも不安があった。漠然たるものにせよ、それは子供の頃からのものであった。≪自分のような人間に、生きる道があるのだろうか≫不安は、ひと言でいえば、それに尽きた。

1984年9月4日4面

1984-09-04 4面
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